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概要

ミシガン州デトロイト郊外のディアボーン市に本社を置く。


ゼネラルモーターズクライスラーと並ぶ、アメリカ自動車産業ビッグ3の一角である。


日本でも戦前から長らく正規販売が行われていたが、2010年代に撤退している。


歴史

創業とT型フォード

創業者・ヘンリー・フォード1世(1863~1947)は工業製品の製造におけるライン生産方式による大量生産のパイオニアとして知られ、自動車の育ての親と呼ばれる。

16歳の時デトロイトで機械工見習いとなり、1891年にエジソン電気会社に入社。昇格して主任エンジニアになったのを機に、自宅で内燃エンジンの研究に没頭。

デトロイト自動車(製造した自動車が低性能だった)、ヘンリー・フォード・カンパニー(経営陣と対立して追い出された、のちのキャデラック)と、2度起業に失敗した後、1903年6月16日にフォード・モーターが創業され現在まで続いている。

当時40歳の彼は12人の投資家から現金2万8千ドルを集め、副社長兼主任エンジニアとして参画。社長は資金調達にあたったアレキサンダー・マルコムソンであった。特に重要な投資家は後にダッジ・ブラザーズ自動車の創立者となる自動車工場の経営者、ジョン=フランシス=ダッジホラティウス=エルジン=ダッジのダッジ兄弟(他にはデトロイトの石炭販売業者の知り合い等)だった。

A型(初代)と名付けた自動車より量産を開始し、1908年のS型に至った。

当初の生産モデルはデトロイト市内のマック・アベニューにある貸工場で生産され、部品を自動車へ組み上げる作業を1台当たり2~3人の工員が数日かけて行っていた。いずれも高価すぎて市場にアピールする事はなく、ヘンリー・フォードは大衆の買える安い自動車を作るべきと考えるようになり、意見を異にするマルコムソンは会社を去った。


T型フォード

1908年から製造販売された『T型フォード』は大量生産時代の自動車製造スタイル、それに付随する全米規模でのアフターサービス体制を形作った最初の車となり、現代の自動車産業の原点としての意味で名車といわれている。

それまでばらつきのあった部品をマイクロゲージ(精密な長さの測定に用いる測定器)を用いて規格化、それまで存在しなかった部品互換性を確保することに成功していた。

T型フォードは初めての自社工場であるピケットロード工場を利用し、フル生産開始の1909年には1万8千台/年もの台数を生産した。廉価なT型への需要が急増すると、さらに大型のハイランドパーク工場を建設し、1911年の稼働時には年7万台の生産を可能とした。

さらに流れ作業システムや大量生産に必要な技術・管理方式を開発し、1913年には世界初のベルトコンベア式組み立てラインを導入した。部品の簡素化・内製化、流れ作業による工員の間での分業化により、たとえば車体1台の組み立て時間は12時間半からわずか2時間40分に短縮され、年生産台数は25万台を超え、1920年までに100万台を突破した。

しかし流れ作業により工員の精神的な負担が増えたことにより労働力不足を招き、賃金上昇するも退職者は続出した。しかし、労働力不足と賃金上昇で1台当たりのコストは上がったが、フォードは販売価格に転嫁せず、逆に生産コストを矢継ぎ早に削減することでコスト上昇分を吸収した。

またブランドに忠実なフランチャイズ販売店システムを導入した。ヘンリー・フォードは、従業員が自社の製品を買えるように賃金を引き上げたが、こうした厚遇は当時のウォール街の金融機関などから批判を浴びている。

こうして1919年末にはアメリカの自動車生産の半分を担い、1920年には全米の自動車の半分がT型フォードとなった。T型以前のモデルでは色に関して多様なバラエティがあったが、T型はペンキの乾きが早く済むという理由で1色しかなかった

フォード・モーターは1908年から1927年までT型フォードだけを製造し続け、19年を一モデルの改良と生産工程の改良、販売サービス網の充実に費やした。

当時金持ちのおもちゃといわれた自動車を大量生産によって大幅に値下げし、車は大衆的な輸送手段となった。これによりアメリカ合衆国に150存在した自動車メーカーのうち、アメリカ市場の5割を占める大会社となった。

1915年には社長であるヘンリー・フォードは第一次世界大戦の休戦を模索するために平和使節としてヨーロッパへ渡っている。これは彼への人気を高めたが、一方でT型フォードは連合国の軍用車となって戦争を支えた。


フォードの転機

1919年にヘンリーの息子エドセル・フォードが社長を引き継いだが、実権はヘンリーが握り続け、個人経営同然の状況であった。彼は安価に大量にT型を供給し続けることしか念頭になく、より上級の車を求める顧客の需要を無視し、生産性のさらなる向上でT型の価格を下げ続けた。


この隙をついてほかの自動車メーカー、特にGMクライスラーがシェアを伸ばしてきた。アメリカ内外の競合企業がT型より新鮮なデザインと優れた性能の自動車で顧客の需要を奪った。

もともと多様な自動車会社が合併して生まれたGMは、大衆車から超高級車までのあらゆる価格帯の自動車を販売しており、さらに矢継ぎ早のモデルチェンジで常に最新型を供給して以前のモデルを時代遅れのものとし、T型しか買えない層よりも裕福な層をつかんだ。またGMほか競合企業はオートローン(自動車の分割払い)による信用販売により、所得の低い層でも分割払いで高い自動車を買える仕組みを築いた。

社長のエドセルは早くから陳腐化し始めていたT型のモデルチェンジを考えており、それは社内や販売店の意向も同様だった。しかし、ヘンリー・フォードはこれを一顧だにせず、オートローンについても、顧客が借金を抱える販売手法は長い目で見て消費者と国家経済を疲弊・荒廃させるとして強く抵抗した。

もはやT型の性能・デザイン面での陳腐化は明らかだった。1927年12月にはついに、1500万台を販売したT型の生産を中止し、心機一転、モデル名を振り出しに戻し再びA型と名乗る車を導入した。一方、1922年2月4日には高級車を製造していたリンカーン(キャデラックなどにいたヘンリー・リーランド航空機エンジンを製造するために設立した会社)を買収。1938年には大衆車フォードと高級車リンカーンの中間にあたるマーキュリーブランドを立ち上げ、ようやく中級車市場へも参入した。

1920年代後半から1930年代にかけての世界恐慌時には、フォード社の高い月給は労働者を多数集めたものの、工場の労働と規則は厳しいものであり、さらに自動車需要の収縮で他社との競争は激化した。なおこの頃航空機製造にも乗り出し、フォード・トライモーターなどの旅客機を世に送り出した。


海外進出

ほかの会社との競争は早期の海外への進出も目を向けることにも繋がった。イギリス・フォードの設立が1911年、ドイツ・フォードの成立が1931年と古くから現地生産が行われた。

またアジア進出も早くから行われ、1925年2月には、当時のアジアにおける数少ない独立国である日本の横浜市緑町に、日本法人の「日本フォード」が組み立て工場を置いた。その後GMもこれにつづき日本進出し、この1925年から1940年頃の時期に自動車販売網、ガソリンスタンドなどの日本の自動車販売の基礎がつくられている。なお日本においては第二次世界大戦にて工場は接収されたが、のちに返還、1979年に提携したマツダの研究施設となっている。

1926年にはオーストラリアのジーロングにフォード・オーストラリアを開設し、1970年代以降独自モデルの生産を続けている。1929年にはソビエト連邦の共同事業としてニジニ・ノヴゴロドにNNAZ(ニジニ・ノヴゴロド自動車工場、現在のGAZ)を開設した。

1967年に欧州フォードが設立されそれ以降はモデルの一元化が推進され、1970年代から1980年代を通して完全に一元化された。欧州フォード車はフォード車であってもアメ車ではなく欧州車そのものである。


第二次世界大戦

フランクリン・デラノ・ルーズベルト大統領は自動車等の産業が盛んなデトロイトを「民主主義の兵器廠」と呼んだ。

フォード・モーターもこれに深く貢献しており、第一次世界大戦および第二次世界大戦では重要な役割を果たした。ヘンリー・フォードは「戦争は時間の無駄」と言ったと伝えられ、戦争から利益を上げることを嫌悪したとされるが、会社は多くの自動車を軍に納めたほか、1930年代のナチス政権下のドイツにおけるフォード工場の国有化に協力しドイツから勲章を得た(ヘンリー・フォードは反ユダヤ主義者として知られている)。

一方でフォード・モーターは第二次世界大戦勃発後の軍用機・軍用車生産の効率を飛躍的に高めた。コンソリデーテッドB-24爆撃機製造にあたり、それまでの飛行機会社では1機/一日の製造が限度だったが、フォードの工場では24時間体制を敷き1機/1時間のB-24を生産した。B-24の製造のために1941年4月に着工したウィローラン工場は面積33万平方mで、当時世界最大の流れ作業ラインを持つ工場であった。

B-24工場建設のストレスなどの要因がかかわり、社長エドセル・フォードは1943年春に胃がんで死去し、再び父ヘンリー・フォード1世が経営者となった。ウィローラン工場は1943年8月生産開始し、大量の爆撃機を送り出した。またフォードは他社とともにM4シャーマンジープの生産にもあたっている。むろんこれらの間、民生用の新車などは生産が滞った。


戦後のフォード

ヘンリー・フォードは最年長の孫であるヘンリー・フォード2世をフォードの社長に据え、1947年世を去った。

1946年に、ハーバード・ビジネス・スクールを経て陸軍航空隊で戦略爆撃を立案・分析したロバート・マクナマラが入社し、経営計画および財務分析を担当する重役となる。マクナマラはヘンリー2世の支持を得て大戦特需からのシュリンクにより危機に陥っていた経営を立て直し、トップレベルの経営担当重役を歴任し、1960年11月9日にはフォード家以外から初めての社長となった。しかし社長就任から5週間もたたないうちにジョン・F・ケネディ大統領に請われホワイトハウス入りし国防長官に就任した。

この間の1950年代、戦中停滞していた本格的な新型車を立て続けに世に送りヒットさせ、1955年には名車と呼ばれるサンダーバードが発売された。

次いで1958年に他社と対抗する意欲的な中級車ブランド「エドセル」を発売したもののこちらは折からの不況とマーケティングの失敗、デザインの失敗(馬蹄状の古臭いフロントデザインで、便器などと呼ばれた)などにより自動車業界史上記録的な大失敗に終わり、1959年11月に生産中止とした。


アイアコッカ時代

エドセルの大失敗で打撃を受けたフォードは1960年、コンパクトカーファルコンを、1964年にはファルコンをベースにマスタングを出し、いずれも大成功をおさめた。1967年にはフォード・ヨーロッパが成立した。

マクナマラの部下の一人で、マスタングなど大成功した自動車の開発やリンカーン・ブランドおよびマーキュリー・ブランドの立て直しにあたったリー・アイアコッカは1970年1月に社長となった。

1970年代以降、フォードはビッグ3のライバルのほか、オイルショックの影響を受けて急速に伸びた日本の小型車との競争でシェアを失いつつあったが、アイアコッカは後に安全性をめぐり訴訟へ発展したピントなどを1971年に発売し、1978年には史上最高の売上と22億ドルの利益を達成したものの、経営方針をめぐって会長のヘンリー・フォード2世と衝突し、ついに同年7月13日に解雇された。アイアコッカは間もなくライバルクライスラーの社長に就任し、同社を再建することになる。


'80年代、'90年代

1979年、フィル・コールドウェルが会長になり、1985年にドン・ピーターセンが継いだ。1990年にはハロルド・ポーリングが、1993年にはアレックス・トロットマンが会長兼CEOになった。

1980年代も日本車との競争が続いたものの、1985年に発売された中型車トーラスの大ヒットやヨーロッパにおけるフィエスタなどの小型車のヒット、そして1990年代には株式市場の盛況とガソリン安で、ピックアップトラックSUVなど収益性の高い多くの車が売れ安定した経営を続けていた。また経営不振に陥っていたイギリスジャガーランドローバーを買収し傘下に収めた。

なお、1974年に日本法人を設立した。さらに1979年にマツダと提携、株式の24.5%を取得した。これにより、オセアニアおよび日本向け小型車の開発・生産のマツダへの丸投げ(例・レーザーファミリア)などを行っている。さらにマツダが1990年代前半の「5チャネル販売政策」で瀕死の状態に陥ったため、1996年に保有株式比率を33.4%にまで上げて子会社化、社長を送り込んで経営再建を図っている。


2000年~

1998年にはジャック・ナッソーが会長兼CEOになった。M&Aに明け暮れ、本業を疎かにしたナッソーは関係企業や社内の不興を買い、2001年に解任された。

2001年には久しぶりにフォード家のウィリアム・クレイ・フォード・ジュニアが会長兼CEOになっている。2006年にはフォード再建を期待されてアラン・ムラーリーが航空機メーカーであるボーイング社から社長となった。

しかしナッソー時代の技術停滞と他業種参入、当時の業界再編に対抗するための買収路線の影響は2000年代に入っても打開できず、原油価格高騰によるガソリンの値上げなどの影響で主力商品のフルサイズSUVやピックアップトラックが燃費の悪さから敬遠される傾向にあり、同様の戦略をとっていたGMと共に経営不振に陥っている。

2007年3月にはPAGグループアストンマーチンがデビッド・リチャーズやクウェートの投資会社などで構成される投資家グループに8億4800万ドルで売却されたことが発表された。これによりアストンマーチンはフォード・グループから離脱。ただしフォードモーターは引き続き7700万ドルの資本は持ち続ける。

2008年3月26日付でPAGグループのジャガーランドローバーが、インドタタ・モーターズへ23億ドルで売却されたことが発表され、フォード・グループより離脱した。売却項目にはデイムラーローバーの商標も含まれている。


世界金融危機

ますます深刻化する業績悪化を受け、2008年11月にフォード・モーターは保有するマツダの株式33.4%のうち約20%を、マツダや広島銀行などに売却した。

2010年3月には、PAGグループに属していたボルボ・カーズを中国・浙江吉利控股集団へ売却。また、90年代後半からブランドの差別化に失敗し販売不振に陥っていた「マーキュリー」ブランドは、2010年10月3日に最後の1台を生産し廃止された。

また世界金融危機以降、北米自動車業界では低燃費車を求める消費者の意向を受け、車の低排気量化が進み、2010年には北米でのBセグメント(全長3750mmから4200mmまで、排気量1000㏄から1500㏄の車種)のフィエスタの販売開始、欧州フォードとの車種統合、ビッグ3では唯一V型8気筒エンジンのDOHC化、フルサイズ車の象徴とされたクラウンビクトリアの生産終了、エクスプローラーの前エンジン前輪駆動化、エンジン排気量を下げる代わりの措置として過給器を取り付けた「エコブスート」の採用など合理化を進めている。

新経営戦略「One Ford」(世界単位で自動車の開発や製造を行い、車種を整理し、世界で通用する品質にするということ)を策定し、それが成功したのか2011年にはGM、クライスラーと同様、業績が好転した。


欧州部門

フォード・ヨーロッパは、同じ「フォード」の名称を使っているが、2010年頃まではフォードの北米部門と欧州部門の販売車種、方向性は殆ど別物である。マッスルな車を重視する北米部門に対し、質実剛健な車を重視する欧州部門とされる。時折販売不振に喘いでいた北米部門とは対照的に、地道に販売好調が続いているのが欧州部門であったが、経営戦略の変化によりこの違いもなくなろうとしている。


日本市場からの撤退、オーストラリアでの生産打ち切り

先述の通り2008年にマツダの株を13%程度にまで減らしたが、その後も段階的に保有比率を減らし続け、2015年までには全てのマツダ株を手放し、マツダはフォードの子会社では無くなった。

2016年1月25日、アジア太平洋地域担当プレジデントのデーブ・ショッホ氏が「フォードはすべての事業分野から撤退する。ディーラーを閉鎖し、フォードとリンカーン車の販売や輸入を停止する。日本で行っている製品開発は他国に移転する計画」という電子メールを域内の全従業員に送った事がロイター通信社にすっぱ抜かれ、フォード側もそれを認めた。

そして2016年12月をもって日本(およびインドネシア)市場からフォードは撤退した。

なお、アフターサービスに関しては、2016年10月から、ピーシーアイと言う会社によって、全国のかつてのフォード販売店を通じて行っている。


また、話は前後するが、2013年5月に、2016年10月をもってオーストラリアでの自動車の生産を打ち切ることを発表した。生産コストがヨーロッパの2倍かかってしまう割に収益が上がらないことが理由であった。

そしてその2016年10月7日、オーストラリアでの自動車生産を終了、ヨーロッパなどからの輸入に切り替えた。


アメリカ本国での車種整理

2018年4月、販売台数が減った上に収益が上がらなくなったセダンや、元からヨーロッパほど販売台数が稼げなかったコンパクトカーを本国・アメリカ市場から将来的には全廃、ピックアップトラックとSUVメーカーメイン(ただしスペシャリティーカーのマスタングも残りはする)のメーカーに鞍替えすることを明らかにしている。


トラクターの生産

1907年からフォードの子会社であったヘンリー・フォード・アンド・サン・カンパニー(Henry Ford and Son Company)がフォードソントラクター(Fordson Tractor)の製造を開始した。1920年にこの会社はフォード・モーターに再統合されたが、1917年に発売開始されたフォードソンF型(Model F)はT型フォード同様に流れ作業により大量生産され、その価格と扱いやすさから爆発的な人気を博した。

フォードソン・トラクターはアメリカイギリスアイルランドロシアで生産され、1923年にはアメリカ国内のトラクター市場で77%のシェアを得るに至っている。

このトラクターはアメリカでの生産は1928年で終了しているが、その後もイギリスやアイルランドで製造が継続された。1938年から1964年の間に、フォードが製造販売するトラクターは全てフォードソン名義からフォード名義に変更されている。

1986年、フォードは農機メーカーのスペリー・ニューホランド(Sperry-New Holland)を買収、1988年からフォード・ニューホランド(Ford New Holland)名義でのトラクターの生産を開始する。

しかし、1991年、フォードは2000年までにフォード名義の製品の生産を停止するという契約のもと、フィアットに売却した。フィアット傘下のニューホランド(New Holland、1998年に他社と合併し名称変更)はこの契約よりも早く1998年にはフォード名義のトラクターの生産を終了した。

会社の特色

100年にわたり創業者であるフォード一族の支配を継続している世界最大級の家族経営会社であり、株式が公開されてからも一族が40%程度を保有している。


自動車の大量生産工程、工業における科学的管理法を取り入れ、さらにそれを進化させたことにより、20世紀の産業史・経営史に特筆される存在とされ、特に1913年、組み立て工程にベルトコンベアを導入し流れ作業を実現したことは有名である。

大量の自動車を早く生産できる効率に優れた工場設備、士気を高める高給料の工員、一台当たりの生産コストの革新的な低減を組み合わせたフォード式生産方式は「フォーディズム」の名で世界的に知られるようになった。


従業員に対しては労働組合の設立を認めないなどの高圧的な面があったものの、従業員確保のため週休二日などの制度をいち早く取り入れたり、同業他社に比べ高額な賃金などのメリットもあったとされる。


創業者がレーシングドライバーおよびレーシングカー開発者として名を立てたためか、米国はNASCAR/インディカー/IMSA、欧州はF1/WRC/ル・マンと、文字通りあらゆるモータースポーツに積極的に関与してきた。

特にF1/CART/ル・マンなどで長らく猛威を振るったコスワースの名機・DFVはフォードの支援により作られており、「フォード・コスワース」として今もF1史上最多勝利エンジンに君臨する。また1966年ル・マンでフェラーリを正面から破った物語は、映画化もされるほどの傑作として知られる。

2022年現在はNASCARとWRCに参戦している。


主な車種

フォード・マスタング シェルビー リンカーン エドセル クラウンビクトリア モンデオ フォーカス フィエスタ エクスプローラー エスケープ クーガ

F-150 フォードGT トーラス ブロンコ トランジット レンジャー エベレスト

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