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安国寺恵瓊の編集履歴

2013-11-26 23:18:55 バージョン

安国寺恵瓊

あんこくじえけい

安国寺恵瓊(1539? 〜 1600)とは、戦国時代の僧侶・武将。一部では大名とも。

概要

戦国時代から安土桃山時代にかけての僧侶

毛利家に外交僧として仕え、長宗我部家の外交僧でもある非有と共に「一対坊主」と称された。


ちなみに呼称の「安国寺」は自身が住持した安芸安国寺(不動院)から来ているが、他にも東福寺、南禅寺など複数の寺の住持になっている他、建仁寺、方丈寺、霊仙寺といった寺院の再興にも力を注いでいる。


生涯

天文8年(1539年)に安芸武田氏の一族・武田信重の子として生まれる。幼名は「竹若丸」。

しかし、天文10年(1541年)に毛利元就の攻撃で安芸武田が滅びると、幼い竹若丸は家臣の計らいで脱出し、安芸安国寺に入れられ出家する。


その後、京都東福寺の竺雲恵心の弟子となり、恵心が毛利家と親交があったことが縁となり、毛利家の外交僧となる。


毛利家と豊臣秀吉との交渉窓口として活躍し、後に秀吉の側近として取り立てられ、四国征伐後に伊予国和気郡に2万3,000石の知行を獲得し、九州征伐後はさらに6万石に加増される。


関ヶ原の戦い」では西軍に属し、主君・毛利輝元を総大将として担ぎ出すことに成功するが、密かに徳川と内通していた吉川広家により毛利軍の参戦を阻まれ、結局戦闘に参加することなく西軍は敗北。敗戦後は広家に諭され逃亡するが最終的に捕縛され、石田三成らと同じく西軍の首脳格として斬首・晒し首に処せられた。


関連タグ

戦国時代 戦国武将 僧侶

中国勢 西軍

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