生涯
旧制高校時代に記念祭で催した芝居に興味を持ち始め、卒業後の1949年に独自の劇団を設立するも、多額の負債を抱えて1年で解散する。
1953年に日本テレビに入社し、ドラマの大道具担当を務めていた。当時のテレビドラマの制作本数は今より少なく、セット完成後は時間が空いたため、仕事の合間にドラマの端役として出ているうちに、かつてあきらめていた俳優業に再び興味を持ち始める。
1956年9月、テアトル・エコーに入団。日本テレビ系で放映された『ヒッチコック劇場』では、同社の元社員という縁もあって声優のキャスティングを担当していたが、ヒッチコックの声を当てる適役がいないとディレクターに相談したところ、「あなたがやってみないか」と言われて演じることになり、これが当たり役となった。
独特のちょっと鼻にかかった声質が印象的で、ヒッチコック以外にも『名探偵ポワロ』のエルキュール・ポアロ、『ピーターパン』のスミー、『ひょっこりひょうたん島』のトラヒゲ等を演じたことで知られている。
ポワロ役には思い入れがあり、最終シリーズまでポワロの声を当て続けた。
寿命が来る前に演じきりたいと語っており、最終シリーズでは流石にご高齢のためか、口調がだいぶゆっくりしたものとなっていたが、それでも最後まで演じ終えたことに、ご自身も満足されていた。
また、1980年から7年間「ばくさんのかばん」という教育番組で、魔法の鞄を持つ不思議なおじさん「ばくさん」を顔出しで演じた。
山田康雄、納谷悟朗などの名優をテアトル・エコーに引き入れたのも熊倉である。山田康雄は熊倉のことを「人拐いだった」と冗談めかして語っている。
また、1968年にはテレビアニメ『ゲゲゲの鬼太郎』の主題歌でキングレコードのヒット賞を受賞。その後『鬼太郎』は何度もリメイクされ、複数の歌手がこの主題歌を歌っているが、やはり熊倉の歌った初代版が一番しっくり来るという声が多い。
晩年まで舞台に立ち続けたが、2015年10月12日、直腸ガンにより、都内の病院で死去。88歳没。通夜・葬儀は近親者のみにより密葬で行われたが、12月頭に有志の手でお別れの会が行われることが明言されている。ちなみに亡くなった1ヶ月後の11月30日には『鬼太郎』の作者の水木しげるも亡くなった。
余談
存命時に死亡説が流れたことがあり、1999年に放送された「快進撃TVうたえモン」で今田耕司に亡くなったのかと言われた際には「にゃにおう!?」と返していた。
主な出演作
アニメ・人形劇
吹替
ディズニー
邦画
日本一の裏切り男 (1968年)
クレージーのぶちゃむくれ大発見 (1969年)
日本一の断絶男 (1969年)
ブラボー!若大将 (1970年)
ゲーム
顔出し出演
ばくさん@ばくさんのかばん (1980年〜1987年)
みんなのうた
- 「バケツの穴」(1968年)
- 「わたしは『とうふ』です」(1977年)
- 「6ちゃんがねころんで」(1978年)
- 「しりとりマンボ」(2012年)