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60系客車

ろくじゅっけいきゃくしゃ

60系客車とは日本国鉄が木造客車を改造して製作した鋼体客車である。
目次 [非表示]

概要

 国鉄が1949年から木造客車の台枠を延長改造して、その上に鋼製の車体を新造した客車の形式群。このグループを総称する形で「鋼体化改造車」とも呼ぶ。

誕生の背景

戦後、国鉄は酷い車両不足(に限らず各種の資材難)と余剰人員に悩まされていた。

戦争末期の空襲によって客貨車を中心に多数の被災車を出し(電車の場合、戦災廃車は実に総数の26%にも及んだ)、戦禍を免れた車両も(もちろん施設も)資材難で安全上必要な最低限の整備すらままならなかった。さらに進駐軍による大量の客車の接収(接収に至らなくても、進駐軍輸送用に抑えられていた車も大量に存在した)がそれに追い打ちをかけた。そのため、有蓋車(屋根付きの貨車)を客車代用に連結して急場を凌ぐことも日常的に行われる有様だった。


ところが当のCTS(GHQの鉄道管理部門・民間運輸局Civil Transportation Section)は、接収優等客車(所謂連合軍白帯車)や(主に外国人利用者向けの)新規優等車(マイネ40など)の調達や整備にばかり躍起になっており、1948年になると極端に不足している三等車の増備は、戦災車の補充すら出来ないまま事実上打ち切りにされてしまった(そればかりか、白帯車の内かなりの割合で鋼製三等車から接収して、格上げ改造したものがある)。


しかし前年の1947年に発生した八高線の脱線転覆事故(木造車ゆえ当該車は台枠上の車体が完全に粉砕)や、木造客車自体が資材難などによる整備不良、終戦後の極端な酷使による老朽化で車両として使用に耐えない状況になりつつあること(実際に危険と判断された状態不良車の緊急廃車も行われている)、さらに満身創痍の状態である現有客車を再生・整備する場合、木造客車の修繕・維持費は鋼製客車と比較して5割増し以上(実際には木造部は全部一から造り直しになることが予想され、その場合もっと費用がかかる)と試算され、それ以前に木造車体のままでは保安度の向上にならないことから、国鉄は木造客車の淘汰を決定した。

こうして木造客車を淘汰する計画がスタートしたが、それには膨大な予算が必要であり、ただでさえ3等車の新製を止められている中、全ての木造客車(約5500両)を新車で置き換えるのは無理な話であった。


そのような状況下で考え出されたのが、主に大正中期以降に製造された22000系を中心とした、17メートル級2軸ボギー車(約3300両)の台枠を20メートルに延長(延長用の節足材として、さらに古くやや小型の12000系などを中心に利用)して流用、その上に新造の鋼製車体を載せ、ブレーキ装置や台車も種車のTR11系を整備の上流用して、費用と資材を節約するプランである。これによって完全な新車の6割程度の費用で、保安度と輸送力に関しては新車と遜色のない客車で木造車を置き換え、補充の新車も最低限に抑える方針とされた。また国鉄工場で改造することで、余剰人員対策になることも期待された。


多大な予算と資材を必要とする鋼体化計画の実行には、当然ながらCTSを説得する必要があった。そのための資料として過去の事故写真や、担当の責任者に運用中の木造車の(特に酷い路線の)惨状を見せた結果、現有の木造車の改造である、いわば「安全のための改造」ということで許可されることとなった。また許可を出したCTSとしても、事故の際に「脆弱な老朽木造車の放置が原因」で被害が拡大した場合、(特に幹部が)監督責任を問われかねなかった事情もあり、国鉄側はそこを利用したのである。

構造

種車となる木造車の台枠(主にUF12)は、ごく一部の三軸ボギー車を除くと上記のように17m級の長さしかなく、足りない3m分は車歴上引き継がれない別の17m車(主にUF11)から切り継いで補っている(鋼材の断面が共通のため可能だった)。 その名残として、台車中心間距離が14176mmという一見半端な数値に如実に現れている。

長形台枠車の17m車時代は14176-3000=11176mm=440インチ(36フィート8インチ)である(トラス棒がついた長形台枠の木造車が制作されていた時期は全てフィート・インチ制で設計されていた。例外として、魚腹台枠をもつ、オハ31系の直前に制作されたグループのみ作図・製造共メートル法へ移行していたため、100mm以下の端数を省いた11000mm(鋼製20m化後は14000mm)である)。

新製車であるスハ32系~スハ43系、10系座席車ではいずれもこの数値は14000mmで、それを上回る数値は車体が更に伸びた20系・12系~24系などでしか使われていない。

なお17mのまま鋼体化することは、初めから考えていなかったという。


なお実際の現車の改造にあたっては、種車の台枠型式の不適合や、状態不良車を優先で工事を進行させたなどの理由で、書類上の種車と現車が一致しないケースが多々見られた。

更には木造ながら20m3軸ボギーの優等客車である、28400系の台枠から台車のセンターピンを移設して流用したもの、末期改造の優等列車向けのオハニ36に至っては、台枠そのものまで新造したものまであったと言われている(民間工場の請負契約では、「元の部材の紛失時弁償または代品の提供」と定められていたため、作りやすい新品の部材で同寸法のものを作って置き換えても何ら問題とされなかった)。また外観上顕著ではないが、改造を担当した工場によって、台枠の接合法や鋼体製作時に治具の使用・不使用など、改造工法に相違があったという。


当初登場したオハ60は木造車並の狭窓3連1組という窓配置であるが、これは上記のように「安全対策上鋼製車体にする」とCTSを説得した手前、広窓(後のオハ61)では「結局オハ35のような客車を作るのではないか?」と工事の計画自体を中止させられる恐れがあったため、あえて20年以上前の古い様式で設計した事情がある。工事が軌道に乗ると、「必要な工数と資材、それによってコストが減らせる」という理由をつけ、本命であった広窓のオハ61に移行した。


なお想定される運用も、木造客車の後継車として普通列車やローカル線が中心になると考えられたため、戦前~戦後製のオハ35型と比較してシートピッチが狭く(座席定員88人→96人)、背ずりのモケットも貼られていない、座席の金属枠や網棚の金具も極力流用品を使用、さらに連結器の緩衝器も容量の小さい流用品を使用するなど、完全な新製車と比較して全体的に簡易化された面も多かった。(これでも酷使と整備不良で満身創痍の木造車からすれば、比較にならないほど上等だったのだが)

また、流用された台車と重量の増した鋼製車体とのマッチングが悪く、高速運転時の乗り心地に難があった。

運用とその後

1949年の登場後、3等車の広窓化などの改良や、改造コストの削減が随時行われて1955年までに約3500両が改造され、全国の幹線の普通列車やローカル線の主力として使用された。繁忙期など客車が不足しがちな時期には急行列車に連結されることもあった。(何と全廃直前の1986年に、年始の臨時急行に充当されたことが記録されている)

また座席定員が多く詰め込みが効くことから、修学旅行などの団体臨時列車として運用側からは好まれていたとも言われる。


なお例外的に登場時から優等列車向けに製造された、荷物室付きの合造車であるオハニ63は、後述のように後に軽量客車同等の台車に交換され、特急「かもめ」に使用されたものすらあった。

さらに1950年代末になると、後述のように3等車のオハ61から特別2等車のオロ61への「格上げ改造」も施工されている。


その後、動力近代化による動力分散化など合理化による車両余剰もあり、17m級鋼製客車(オハ31系)の淘汰がほぼ終了した1963年度から本格的な廃車が始まった。その後も老朽化や後継客車の登場により国鉄末期までに殆どの車両が廃車されたが(オリジナル車は1986年3月に全廃)、後述するごく一部の改造車がJR西日本に引き継がれ、(保存目的でない)一般営業用旧型客車としての日本最後の運用についていた。

またお座敷客車に改造後にJR東日本へ引き継がれた車両も存在した。


動態保存車がJR東日本と大井川鉄道にそれぞれ1両存在するが、いずれも本グループの中心(普通列車向けの詰め込み設計)から外れた、優等列車用3等荷物合造車(オハニ36)である。


形式

その成立の経緯から、極少数の優等車両を除くと、ほかは全て3等車(→普通車)である。

普通車グループ

オハ60・オハフ60

最初に登場したグループ。700mm幅窓を3個一組で使う、木造車やオハ31系を思わせる窓配置であるが、前述のように工事の許可を得るために使った、一種のカモフラージュである。

元々設計陣の本命は広窓のオハ61相当の車両であったが、それでもこの狭窓グループも400両弱の大所帯である。種車の木造車とは窓の横寸が近いだけで、実際には窓は全くの新造品である。(構造も全く異なる)

なお、オハフ60は北海道向けで、1mの広幅窓を使用するために必要なバランサーを節約する意味もあった。

オハ・オハフ・スハニ(→オハニ)61/62ほか

基幹形式の一群。北海道向け二重窓の車両は形式を62とした。

本州以南用荷物合造車のみ途中から重量等級が下がっており、形式記号がスハニ61→オハニ61

と変化しているが、これは荷重を1t減らすことで(5t→4t)重量等級を一つ下げて編成両数の制限を喰らいにくくしたためである。しかし耐寒装備で元々重い北海道向けのスハニ62では、更に荷重を減量せねばならず意味が薄いため5t積みのまま変更されていない。

スハニ64はオハニ61の電気暖房装備車。

オハニ63→オハニ36(スハニ37)

鋼体化改造末期の1955年に、鋼体化客車としては例外的に優等列車向けの三等・荷物合造車として製造された。荷重は61形式同様4t。そのため、車体の設備面だけで言えばスハ43系に属するとも言えるグループである。

当初は改造の際に台車をTR23に交換の上落成させる予定であったが、肝心のTR23が調達できなかったため、暫定的に種車(名義上の台枠拠出車)のTR11をそのまま使用した。後年、10系客車のものを母体とするTR52に交換、形式を鋼体化改造車らしからぬ「オハニ36」とした。現在動態保存されている2両はいずれもこのオハニ36。

スハニ37は後年に東北・北陸地方など、交流電化区間で採用された電気暖房を追加した結果、重量等級の境を超えてしまったため、別形式にしたものである。

通勤車グループ

オハ63

オハ60の全ロングシート改造車。但しデッキは種車通り2つだけのため、乗り降りが早いか・・・というとそうではない。単にラッシュ時に詰め込むための改造である。

オハ64・オハフ64

同様にオハ61・オハフ61を改造した・・・・のが当初の姿だったが、運行区間が和田岬線だけのため、数年後に片側だけ横引き戸を増設、当初車体両側にあったロングシートは元々申し訳程度の短いものだったのが増設ドアの反対側だけとなりそれも更に短縮、あとは全て立ち席スペースという極端な通勤仕様となった車両。もちろん旧客なので増設横引き戸も含めドアは全て手動である。

元のTR11では心皿荷重に余裕がないとされTR23に取り換えられたが、時速75km/h以下では乗り心地に大した差はない上、TR11は派生形式の大荷重形TR12に容易に改造可能なため(車軸・枕バネ等の設計荷重が10t・12tと異なるのみで交換するだけ)、そういう選択肢が採られなかった経緯は不明である。(老朽・旧態化したTR11に手間と費用をかけて強化改造するより、当時廃車が進んでいたスハ32等の発生品であるTR23を流用する方が、改造費や保守上得策とされたことは想像できる)

これが民営化後・平成の世になるまでドア開けっ放しで走っていた。

1990年に同じく和田岬線仕様に改造されたキハ35系に置き換えられる形で引退、これにより保存目的を除く一般営業としての旧型客車の運行は全て終了した。


優等車グループ

製造時点から優等車の2形式も、戦後の混乱を反映したものである。なお、計画にとどまったが、並ロと思しき合造車、オロハ61という形式名称が伝わっている。

スロ60・50(←61)

スロ60は進駐軍・CTSから「(設備の貧弱な)2等車の座席にリクライニングシートを装備せよ」との勧告(事実上の命令)があり、既存車の改造では(窓割など)要求に応えられないため、急遽オハ60の台枠・車体用資材を転用して速成した特別2等車(→グリーン車)である。2等車でありながら既存の2等車と差別化するため、「特別2等車」という新しい運賃制度が設けられることになった。スロ50はその増備車であるが、新製車の予算枠を用意したものの結局入札が成立せず、やむを得ず国鉄工場で自製することになった。その際に鋼体化客車用の資材(=木造車の台枠)を用いたため、落成時点では資材の出処を反映した61形式で「改造」の銘板を持っていたが、これではCTSから指摘を受けかねないため、運用の前に形式を「50」に改め銘板も「新造」とした。

シートピッチはスロ60が1250mm、スロ50が1100mm。メートル法で丸めているとはいえ、アメリカの規格が原型にあるためそれぞれ近いインチ数(49インチ・44インチ)が基準という推測がつく。シートピッチの縮小分(150mm)に対し、スロ50~52の窓は大変幅が狭くなっている(1000mm→700mmと300mm減)のが特徴的であるが、年次の近い客車の窓幅は600mm・700mm・1000mm・1200mmしかなく(電車用では800mmも存在するのだが)、適切な開口幅を得られなかったため大変にアンバランスな外観を呈している。これは当時の板ガラスの規格が偶数インチ刻み(50.8mmごと)であったため、選択肢が狭かったことが理由として挙げられる。

当初設計のリクライニングシートは車体幅2800mm(内幅2600mm)に押し込むため回転中心が旋回時移動するなどの機構を持っていたことが、次のオロ61形式の誕生のきっかけとなる。

オロ・オロフ61→スロ・スロフ62

格上げ改造による急行用グリーン車。オハ61からの格上げ改造車で、殆どは電気暖房付き急行用グリーン車として製作された。既存のスロ60などでの電気暖房化が回転部分の構造に由来し費用的に難しいとされた時期、座席の構造がよりシンプルな軽量客車と同じ座席を用いて電気暖房を併設(スロ60ほかの座席をこれに取り換えた場合も、結局はオロ61の改造と大差ない金額になってしまうことも、既存車の電暖化が難しいという理由である)。加えて交換した台車の重量が特に軽いTR50系のため両数の制限を受けにくく、山岳線区で重宝した。但しそうした線区は軒並み寒冷地のため、改装の際内装板も新建材系の耐寒性能の低いものに変えてしまったことが、その後難点として現れることもあった。

なお、オロフ61は車掌室が設置された緩急車であり、オハ61からの直接改造と、オロ61を再改造したものがある。

1967年から全車に冷房改造が実施された。改造にあたっては元の木造キャンバス張りの屋根を撤去して、(冷房装置を載せるため)鋼製の浅い屋根を新たに載せている。(改造担当工場によって雨樋の高さが2種類存在する)

冷房を装備した結果、重量等級は「オ」から「ス」級へと一つ上がってしまい、スハ43系のスロ54と同程度の重さになったが、後年まで生き残った旧型客車のグリーン車である。

スロ・スロフ81

1972年から、スロ62・スロフ62を改造したお座敷客車。

それまでにも車内を敷きにしたお座敷列車は存在したが、冷房が無く老朽化が進んでいたこと、客車急行列車の特急格上げや廃止の影響で、冷房改造から日が浅いにもかかわらず余剰化が進んでいたグリーン車の有効活用を兼ねて、1979年までに7編成(いずれも6両編成)が改造された。

メカニズムは旧型客車のままなので、冬季の暖房は蒸気暖房または電気暖房を備えた機関車が必要となる。

1980年から12系客車から改造された後継車によって順次置き換えられたが、旧水戸管理局に所属していた編成(元々は東京南鉄道管理局所属)がJR東日本水戸支社へ引き継がれ、後に「ふれあい」という愛称がついた。

こちらも旧型お座敷客車としての最後を飾り、上記の和田岬線と同じく1990年に引退している。

荷物車

マニ60

当初より荷物車のグループ

側窓の寸法はいずれも700mm。

種車は台枠の形状から大型の水タンクが床下に取り付けにくいため旅客車に向かない、魚腹台枠の客車が多く用いられている(勿論普通の長形台枠で新造されたものもある)。

魚腹台枠車は木造車では最後期のグループのため、実は車齢も若く昭和になってから落成したものも混じる。

魚腹台枠車といえど乗務員用にトイレとそのための水タンクが小さいながらも存在し、取り付け方は台枠に干渉しないように工夫されている。

他形式から改造のグループ

荷物輸送客荷分離させる方針から、オハニ61・オハユニ61など、荷物合造車・郵便荷物合造車から車種変更改造で大量に増備された一群。そのため、元客室部分だった窓には1m幅のものが残る。

なお、オリジナルのマニ60よりも改造編入車の方が多数派である。

マニ61

マニ60の装備するTR11・12では20m級車両として高速走行するとピッチングが激しく、荷痛みがひどくなったため、TR23など軸ばね台車に交換したもの。

ギャラリー


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