概要
イラクとアメリカ合衆国を主体とした多国籍軍により行われた戦争。
イラン・イラク戦争が収まった1980年代末、イラクは米国の穀物輸出制限や石油安値で経済的に困窮したが、隣国クウェートが過剰な石油増産を続けたため、石油価格がさらに下落。さらにイラクとの油田領有をめぐって両国の摩擦が激しくなった。
そして1990年8月2日にイラクの戦車部隊がクウェートに侵攻し、サダム・フセインは併合を宣言し、傀儡政権を樹立。(クウェート侵攻、またはイラク・クウェート戦争)
これに対し、国連による撤退を求める決議の期限が経過した後の翌1991年1月17日に多国籍軍側の空爆(「砂漠の嵐」作戦)により戦闘開始。
2月24日からの地上戦(「砂漠の剣」作戦)によりクウェートからイラク軍が排除され、3月3日に暫定停戦協定が結ばれ終結した。
GPSのナビゲーションを用いた初の戦争であり、空対地ミサイルAGM-84E SLAMのシーカー映像やAH-64のサーマル映像などが公開され、さらにこの戦争でステレス機F-117が有名となり、アメリカ軍のハイテク装備とイラク軍の旧式となった装備との差があったこともあり、旧態の戦争と分ける意味でハイテク戦争とも呼ばれた。
またミサイルが標的に突っ込んでいく映像や地対空砲が飛び交う夜空の映像なども有名となり、戦争がゲーム感覚になったとも言われる。
冗談めかして「NINTNDO WAR(テレビゲームのような戦争)」と呼ばれたことも。
20世紀最後の戦車戦「73イースティングの戦い」で多国籍軍のM1エイブラムスとチャレンジャー1・2がイラク軍のT-72MやT-55と戦闘し、その戦いは多国籍軍の一方的な勝利に終わった。
(性能が違い過ぎるので当然の結果であるが、これは開発元のソ連にとってショックだった。)
この戦争で米軍がメッカを有するサウジアラビアに駐留したことで、イスラム系過激派を刺激し、とくにアルカイダを率いるウサマ・ビンラディンは後の同時多発テロを計画・実行につながった。
NATO域外展開を禁じた条文のために派兵が出来なかったドイツ及びバブル景気が崩壊した日本は参戦せず、アメリカとクウェートに戦費と資金の面で協力。
(機雷除去のために海自が派遣されたが、これは戦後のことである)
後に日本ではPKO協力法成立のきっかけになった。
ドイツも裁判所での判断などにより条文の改正を行い、国連PKOや平和維持活動などでNATO圏外への派兵が行われるようになった。