概要
起源は国際寝台車会社(日本での通称「ワゴン・リ」社)により1883年に運行がはじめられたパリ ― コンスタンティノープル(イスタンブール)間の列車(当時は一部船舶連絡)である。その後、西ヨーロッパとバルカン半島を結ぶ国際寝台車会社の列車群が「オリエント急行」を名乗るようになった。
第二次世界大戦後は運行区間を次第に縮小し、2009年に完全に廃止された。
現在はかつての国際寝台車会社保有車両等による「オリエント急行」を名乗る観光列車が運行されている。
オリエント・エクスプレス '88
1988年にフジテレビ開局30周年を記念し、スイス・インターフルーク社(現存せず)の所有車両をシベリア鉄道等を経由させて日本まで「1本の列車として」走らせるというイベントが行われた。
このイベントにはJR東日本が主導し、JRグループ各社が協力、日立製作所が協賛している。
ことはじめ
企画の発端はフジテレビが1982年にオリエント急行の特別番組を製作したところから始まる。そのとき製作を担当したとあるプロデューサー(仮名N)が「オリエント急行を東洋の奥地の日本まで走らせたい!」と言い始めたのだ。
しかし、社内では冷ややか目でみられ、専門家からも「無理」の一点張りだった。
そんな中、唯一興味を示したのが国鉄(当時)の運転局長だった。このお方、一時パリの国際鉄道連合への赴任経験があり、最初に挙げた番組の制作にも協力していた。
「難しいかも知れないけどやってみよう」ということで検討が行われ、その結果「主要幹線なら走れそう」という結果が出た。
取材を行ったオリエント・エクスプレス・ホテルズ(現ベルモンド社)も来日に関して協力的な姿勢を示していた。
1987年頃になると、Nの周辺の態度も変わり始め、この企画を来たるフジテレビ開局30周年の記念事業にするために具体的な検討に入るよう指示があった。
しかし、時は国鉄分割民営化直前。一テレビ局の戯言にこれ以上時間を割く余裕は無かったので計画は一時中断されてしまった。
具体的な話へ
国鉄が民営化された直後、JR東日本の副社長になっていた運転局長の了承を経て、オリエント急行来日は予定通り行うことになった。
これはJRが「国鉄ではできなかったことをやってみたい」という意図もあったという。
客車のレンタル、運行などの交渉はフジが行い、JRは乗客への案内、販売を担当することになった。
しかしその矢先、突如OEH社の社長が交代し、レンタル料が非常に高額になってしまった。そこでやむを得ずインターフルーク社にレンタル先を切り替えたが、「なんでもっと早くうちに相談しなかったんだ!!」と逆に怒られたという。
しかし無事に契約は結ばれ、今度は通過国に対する交渉が行われた。
欧州側はインターフルーク社が、それ以降はフジが担当した。
ここで立ちはだかることが予想されたのがシベリア鉄道を擁するソ連(当時)である。しかし、この頃のソ連はゴルバチョフ書記長によるペレストロイカ改革やグラスノスチ(情報公開)を進めていたため、あっさりと許可され、さらに空撮までも許可された。
逆に難航したのが中国で、この頃運悪く上海で鉄道事故が発生(日本人も犠牲者に含まれていた)、事故に配慮して大陸側の終点を香港(当時英国領)に変更したが、「そんな列車が来るわけない」と信用されなかった。また、フランス国鉄も最初は「そんな列車を本気で走らせようとする人間がいるとは思えない」と取り合ってもらえなかったという。
技術的問題
すったもんだの末、なんとか運行経路は決まった。となると次は技術的な問題である。ここでは大きなもののみを取り上げる。
車両の規格
オリエント急行の客車は幅は日本の車両より狭い(2.9m)が、長さは長かった(23.5m)。一応日本国内でも主要幹線なら走ることはできるとされたが、いざそれに合わせて建築限界測定をしたところ干渉する箇所がかなりあったため、一部では線路を付け替えるなどの対策がとられた。
車両側でも乗降用のステップや装備品の一部を取り外すなどの対策がとられた。
軌間
欧州、中国は標準軌の1435mmだが、日本は1067mm、ソ連ではさらに広い1524mmである。これについては台車を適宜交換することで対応したが、ソ連用台車はインターフルークが用意し、日本では旧型客車用の台車が用意された。
連結器
オリエント急行の連結器はねじ式連結器。しかし、欧州以外では自動連結器となっているため、連結器変換のための控車が用意された。日本では20系を改造したオニ23とマニ50が用意された。
防火関係
オリエント急行の客車には内装に木材が多用されている(当時は鉄道車両に木材の使用は原則禁止)。しかも食堂車には石炭レンジ、各車の暖房にも石炭ボイラーが使われていた(これらもかつて起こった事故のため禁止)ため、このままでは法律違反となる。最終的には火災報知機と防火保安員を常務させるという条件で特認を得ている。そのまま青函トンネルも通り、北海道まで走行している。
運行
紆余曲折を経て1988年9月5日、ついに「パリ発東京行き」の「オリエントエクスプレス」が発車することになった。牽引機は「オリエント急行殺人事件」にも登場した蒸気機関車だった。その後はほぼ順調に大陸を走行し、9月26日に香港へ到着。ここから船で日本へと輸送された。
そして日本を走るための諸整備が行われ、10月17日、日本側の始発駅となる広島駅へ入線し、一路東京を目指す。
翌日の10月18日、オリエントエクスプレスは定刻に東京駅へと入線。そしてこの瞬間、「ひとつの列車が乗り継ぎなしで走った最長距離」としてギネスブックに登録された。
その後は日本各地を臨時列車として走行し、展示会なども行われた。
最終運行に際してはJR東日本が復帰させたD51形498号機が一部区間で牽引に当たった。
オリエント急行を題材とした作品
イスタンブール直通の「オリエント急行」は、上流貴顕の乗車が多く、東洋に連なる列車であることから、エキゾチシズムを伴った豪奢な乗り物というイメージが世界的に広く敷衍している。
そのため、多くのサスペンス小説がその題材として取り上げており、中でもアガサ・クリスティの「オリエント急行殺人事件」はとりわけ有名である。
また、この列車を題材とした音楽としては、イギリスのフィリップ・スパークによるブラスバンド(英国式金管バンド)のための作品「オリエント急行(Orient Express)」(1986)がある。
この曲は「ドラゴンの年(The Year of the Dragon)」等をはじめとするスパークの代表曲のひとつであり、作曲者自身が編曲した吹奏楽版と併せて世界中の楽団で演奏されている。
余談
現在箱根ラリック美術館にはオリエント急行で使われたプルマン車No.4158が展示されているが、この車両こそ、かつて日本を走ったオリエント急行の客車のひとつである。
関連イラスト
関連動画
オリエント急行(Orient Express)/フィリップ・スパーク
- ブラスバンド版
ブリーズ・ブラスバンド(Breeze Brass Band)
ヴィヴィッド・ブラス・トーキョウ(Vivid Brass Tokyo)
- 吹奏楽編曲版
王立砲兵軍楽隊(Royal Artillery Band)
東京佼成ウインドオーケストラ(Tokyo Kosei Wind Orchestra)