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F8Fの編集履歴

2016-05-29 18:58:15 バージョン

F8F

えふはちえふ

F6Fよりもさらなる大出力エンジンを、ゼロ戦よりも小型の機体に詰め込んでいる。当然ながら、レシプロ艦上戦闘機としては最高峰の飛行性能を誇り、来たるべき日本本土侵攻作戦に投入される予定だった。配備部隊が太平洋を越えている最中に終戦となったために大戦中の実戦記録はないが、のちにレース用の改造ベース機として注目されて現在に至る。愛称は『ベアキャット』(ジャコウネコの一種、または勇敢な闘士の意)。

『最強のレシプロ艦上戦闘機』

F6Fが初実戦に投入された2か月後、F8Fの開発は始まっている。


F6Fはみごとゼロ戦に引けをとらない性能を発揮し、これから太平洋を支配しようという時に、どうしてさらなる新型機が必要とされたのだろう。本当ならわざわざ新鋭機を開発するまでもなく、F6Fをそのまま増産すれば事は済むはずのに。


その答えは『F6Fは大きすぎて、小型空母からは運用できない』というもの。

確かに空戦や対地攻撃に強力な戦闘機だったが、大型でとり回しが悪く、搭載しようにも占有スペースが大きすぎる事が弱点となったのである。


そこでF8Fは思い切って小型とし、あらゆる空母から使える戦闘機を目指して設計された。この設計思想の発端は、ドイツのFw190からの影響もある。

エンジンはF6Fの更なる改良型(出力3割増し)を搭載し、おまけに開発~テストまで殆どトラブルを起さなかった。そのせいもあって初飛行は1944年8月に行われ、ここまで実に9か月という超スピード開発となった。


しかも最高速度は670km/hを超えており、これは重量面で不利になりやすい艦載機である事を差し引いても驚異的な記録である。

(事実、ゼロ戦52型よりも100km/hも速い)


能力について

長所

零戦をはじめとした戦闘機に空戦で勝つことを第一に開発されている。

『零戦に勝つ事を第一に作られた』と言われることもあるが、厳密に言えばこれは誤りである実際に目指したのはドイツのフォッケウルフ Fw190である。。もちろん、当時の仮想敵が日本である以上零戦の存在の影響が全く無かったというわけでもないが。

さすがに重量面では零戦に及ばない(=旋回半径では勝てない)ものの、出力面で勝っているので旋回率(回頭速度)では有利となる。


もちろん出力対重量比ではF6Fよりも勝っており、一撃離脱戦法にも磨きがかかっている。とくに末期の太平洋戦線では巴戦(ドッグファイト)に慣れたベテランは少なくなっており、周囲警戒が手薄になりやすい未熟パイロットでは餌食にされるばかりだっただろう。


とにかく、飛行能力ではF6Fを上回っており、これ以上に困難な相手になったと思われる。


とかく動機が軽空母……という最近出てきたフレーズに流されがちだが、そもそも補佐役の軽空母専用の機体と考えていたのならこんな性能は必要ない。F6Fの先代にあたるF4Fが充分な能力を発揮していたからだ。F4Fの最終型であるFM-2(メーカーがゼネラル・モータースによる転換生産となったためメーカー号が変わりFM『ワイルドキャット』となり、同社でのモデファイとなったため“-2”がついている)は高々度を新鋭機に任せて性能を割り切り、エンジンの過給機を省略して軽量化することで、『低高度限定ではP-51に迫る』性能を手にしていた。むしろ不足していたのはF6Fの高々度性能で、四式重爆『飛龍』など硬いわ速いわでダイブ&ズームにはより高い上昇力を必要としていた。

F8Fは期待の星だったのだ1945年8月15日までは


F8F・零戦の重量

全備重量比では零戦52型は2.7tなのに対し、F8Fは4.4tと、実に1.5倍にもなる。


短所

最大搭載量と航続距離は手薄になっており、F6Fを下回っている。

この点についてはF4Uの方がロケット弾爆弾を多く搭載できるのだが、これは後の明暗を分けることにもなった。


零戦よりも小型におさえ、能力を絞り込んだ事がアダになったのである。

その後戦闘爆撃機として活路を見出したF4Uだったのだが、F8Fにはその機会すら与えられなかった。


それもこれも空戦能力に傾倒したおかげで、その後の活躍の機会は失われてしまった。

グラマン社にとってもレシプロ戦闘機開発はF8Fで最後となり、その後はF9F「パンサー」のようなジェット戦闘機へと切り替わることになる。


その後のベアキャット

軍隊生活

終戦とともに「もういいや」となってしまったF8Fはその後、朝鮮戦争で実戦に参加……させてもらえなかった。この戦争で対戦闘機用にはジェット戦闘機が充てられ、対してレシプロ戦闘機には対地支援のような補助的な役割が与えられたのだ。


となると、搭載能力の乏しいF8Fに出番は与えられず、対して旧式でも使いでに優れたF4Uが主役を張ることになった。アメリカ海軍におけるF8Fの現役は1952年で終わり、朝鮮戦争が休戦するまですら現役に留まらなかった。この戦争でF4Uは対地支援のため縦横に活躍したが、F8Fは全く活躍せず、ここでも期待外れとされてしまったのだった。


残った機はフランス空軍に売却されてインドシナ戦争に参加したり、南ベトナムがその残存機を運用した事がある。またはタイにも供与され、空軍の一線を務めたりもした。


だが総じて「大活躍」とは無縁であり、当初の期待とは全くはずれたものとなってしまった。レシプロ戦闘機としては新しい方だったとはいえ、空戦ではジェット戦闘機に勝てる訳もなく、かと言って多用途性に優れるわけでもない。当然ながら「時代に取り残され戦闘機」として名を残すにとどまったのだった。


退役後

だが、そんなF8Fにも注目する者たちが居た。

アメリカ各地で催される航空レースにおいて「性能がよく、かつ傷みの少ない機」を求めるレーサーたちの目に留まり、ここにようやく活躍の場を得たのである。


そういった目的ならP-51とタメを張る人気を博しており、航空レースでもよく見かけることができる。レシプロ機における世界最速記録も、このF8F(の改造機)が有している。

高い飛行能力を目的に開発され、それが故に短命に終わった戦闘機は、皮肉なことに戦争以外で人気になったのである。


歴史は繰り返す

F8Fが不要となったのはF8Fに問題があったからではない。日本・ドイツとの戦争終結というエネミーパワーの空白によるものである。


その後、戦闘機は第一次世界大戦終結後同様混乱期に陥った。理由ひとつにジェット機化というストリーム、もうひとつ核兵器というそれまでになかったファクターの介入によるものである。


特にお互いの核攻撃に対する恐怖感は敵戦略爆撃機の撃墜に躍起になった。米軍で言うと空飛ぶ鉛筆F-104とか、AAMしか積んでない初期型のF-4とか。ソ連側も試行錯誤振りは似たり寄ったりだった。


だが皮肉なことに核攻撃の手段が重爆撃機からICBMへと変わると、戦闘機は再び『戦場で敵戦闘機を駆逐する』能力が求められた。

その中で生まれた1機が“猫、4代目”グラマン F-14 トムキャットである。


ところがその運命もまたベアキャットと同じ道を辿った。ソ連が崩壊してしまったのである。ロシアは経済の低迷もありしばらく米軍に比する高性能機の開発は不可能になった。

艦載機の不利を覆すための可変翼など高額についたため、大概セールスではほぼ同一の性能の陸上専用機であるF-15にその座を奪われる(F-15も“極限の制空戦闘機”であり、安い機体ではなかったが、F-14“よりは”安かった)。またマグダネル・ダグラスかよ!!

F-14はジェット双発機ゆえペイロードは大きく、爆戦(ボムキャット)へと転身した。だが機体も維持費も高額なため最終的には本格的なマルチロール機F/A-18ホーネットにその座を譲る。また(ry

そしてトムキャットの挫折はグラマンの運命も決まってしまった。軍用機特化のグラマンは一気に経営が厳しくなり、ノースロップに吸収されてしまったのである。

もっとも怨敵マグダネル・ダグラスもまたボーイングに吸収されたのだが


F8Fが失敗機と言われることは非常に少ない

むしろ、ホーカー シーフューリー、フォッケウルフ Ta152四式戦 疾風、ヤコブレフ Yak-9、らと共に究極のレシプロ戦闘機という評価の方が圧倒的に多い。


そして米軍機がマルチロール化している中、日本は戦闘機の(再)純国産化を目指して技術実証機XTD-2の初飛行に成功した。これはなにを意味するのか……

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