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山本勘助の編集履歴

2020-03-07 15:22:02 バージョン

山本勘助

やまもとかんすけ

戦国時代の武将。武田信玄に軍師として仕えたとされる人物。

概要

  • 生:明応2年(西暦1493年)
  • 没:永禄4年9月10日(西暦1561年)

※生年没年は甲陽軍鑑による。


甲斐の戦国大名・武田信玄に仕えた名参謀。同時代文書では「山本菅助」とも表記される。または晴幸とされるが、室町幕府将軍・足利義晴の諱とも重複するため、武田の一家臣に過ぎない勘助が本当に名乗ったかは疑問視されている。


出自は三河国(現在の愛知県東部)の出身だといわれるが、別の説として駿河国静岡県東部)の生まれともされている。基本的に勘助の活躍は軍学書『甲陽軍鑑』以外に殆ど見受けられず、よってこの項目でも基本的に『甲陽軍鑑』に比準するが、『甲陽軍鑑』の史料的信憑性については現在でも議論の余地が残る、という事だけは留意されたい。


武田五名臣武田四天王とは別)の一人に挙げられる。他の四人は信虎の時代から活躍した前線指揮官であるのに対し、勘助だけはその用兵や築城技術を買われて武田晴信に登用された参謀的人物となっている。


経歴

さて、その『甲陽軍艦』によれば隻眼で容貌に恵まれず、また戦傷により片足が動かなかったとされる。その容貌のせいで当初、仕官を希望した今川家にて袖にされ、駿河にて9年もの間雌伏の時を過ごす事となる。


その後、築城や城攻めに通じた牢人が駿河にいるという風評が武田家重臣、板垣信方の耳に入るや、信方は若き武田晴信に推挙し、晴信は勘助を足軽大将としては破格の二百貫にて登用する。その後は一貫して武田家にて活躍。諸国放浪で得た見識と天才的軍略、そして優れた築城術(小諸城高遠城海津城の普請は勘助によるものとされる)で信玄を支えた。また政治面でも実力を発揮し、分国法制定の献策をしたとも伝わる。真田三代記によれば真田幸隆とは懇意の仲だったと記されている。そして、上杉謙信との第四次川中島の戦いで討たれ戦死したとされている。


実在性について

しかし「山本勘助」なる人物の記載は『甲陽軍艦』にしか見受けられる事がない為、江戸期から既にその存在を疑われてきた。明治24年(1891年)、東京帝国大学教授の田中義成は「山県昌景配下の身分の低い一兵卒」だろうとした。『甲陽軍艦』での活躍は、子孫が誇大に飾り立てた記述が入り込んだという説である。さらに第二次世界大戦後には奥野高広が架空説を唱え、これが有力になりつつあった。


ところが1969年(昭和44年)、NHK大河ドラマ天と地と』を視聴した北海道釧路市在住の視聴者が所持している先祖伝来の古文書を発掘し、その中から「山本菅助」なる人物の名が入った文書(市河文書)を発見し鑑定に出した所、真物という判定が下され、瀬戸際での大逆転にて「山本勘助」の存在は取り敢えず認められる事になったのである。


2008年(平成20年)には群馬県安中市の安中市学習の森ふるさと学習館にて、真下家所蔵文書調査の結果武田家宛の文書が発見され、これを山梨県立博物館が資料調査したところ、五点の新出文書が確認された(あくまで真下家の家伝では無く、過去に他家から収集した文書であるため真下家「所蔵」文書と呼ぶ)。その内から「山本菅助」宛の文書が三通、「菅助」子孫と目される山本十左衛門尉宛ての文書も二通発見され、「山本菅助」の子孫についても次第に動向が明らかになってきた。翌2009年には沼津市の山本家伝来の文書(沼津山本家文書)が再発見され、沼津の山本氏が山本菅助の子孫であること、江戸時代には「山本勘助=菅助」と認識されていたこともわかった。なお、真下家所蔵の山本菅助文書は、過去に沼津山本家から売却されたと見られている。


近年の研究では武田氏滅亡後、勘助の子孫は徳川家康に仕え、越前国松平家などに広がって仕官したとされる。昭和期の海軍軍人・山本五十六越後国長岡藩の家老を務めた山本氏出身で、この五十六が山本勘助の家系であるという話は有名である。2007年(平成19年)には黒河内家に宛てられた文書が見つかり、その中に「山本勘助を大将にして城攻めの準備をせよ」と記されとされている事から、少なくとも山本勘助なる人物が存在した事は間違いなく、またその立場も国家間のトップシークレットに携わる地位にいた事が確認されている。


なお、『甲陽軍艦』自体も、戦国時代の言葉が使われていること、甲州方言が使われていること、「下劣言葉」と呼ばれる身分の低い人の表現が使われていることなどから、百姓出身の春日虎綱(高坂昌信)の口述筆記という触れ込みに一定の真実性があるとして、その史料価値を見直されている。


信長の野望において

戦国群雄伝から登場。一部作品では山本晴幸名義で登場していた事もある。


初期の作品は主君である信玄に次ぐレベルの高い能力を有していたが、時代が経つにつれて他の武田家臣の再評価が進み始めると、勘助の業績が信憑性に乏しいことも相まって各能力値が減っていき、知略(智謀)は一貫して高いものの作品によって武勇が低かったり政治が低かったりとあまり安定しない性能に。


顔グラフィックは初登場時から隻眼・達磨のような髭面・スキンヘッドという出で立ちで一貫していたが、大河ドラマ「風林火山」が放送された後に制作された天道以降の作品では大幅に若返り、内野聖陽が演じた勘助さながらの顔になっている。


戦国大戦において

「1560尾張の風雲児」から武田家武将として参戦。レアリティは最上位のSR。


計略「啄木鳥戦法」は敵の武力を下げた上で強制的に自分に向かわせる計略で、他の味方と連携することで高い殲滅力を発揮する。

伏兵・制圧・攻城と実用的な特技を3つ持ち、その全てを活かせる高い統率力10により完成された能力。

しかし2.5コストを割く武将でありながら武力6しかないので、丁寧な運用が必要になる。


群雄伝では今川家で燻っていたところを板垣信方の推挙で武田家に仕官し、武田信玄を支え続け、

自身は真田幸隆を推挙。その後は第四次川中島合戦で宇佐美定満に討たれる。

今川義元の討死に関与していたことを匂わせる発言もある。

主君武田信玄はもちろんのこと、大河ドラマの効果か諏訪姫と関わるイベントも多い。


大河ドラマにおける勘助

「天と地と」

1969年放送の第7作目・・・なのだが同作には山本勘助は登場しない。それもそのはずで、原作の小説を手がけた海音寺潮五郎は勘助が実在しなかったとする学説を支持する立場であり、そのため勘助も作中に登場する余地はなかったのである。


もっとも、同作の放送がきっかけで前述の市河文書の発見、ひいては勘助の実在が証明されたのもまた事実であり、(海音寺にとっては皮肉な話ではあるが)その点においては勘助と決して無関係とは言い難い作品でもある。また同作と原作を同じくする映画版(1990年公開)や、テレビ朝日系で放送されたスペシャルドラマ版(2008年)のように、原作には登場しなかった勘助が登場する映像作品も存在する。


「武田信玄」

【マウス絵】山本勘助・大河ドラマ『武田信玄』より

演:西田敏行

1988年放送の第26作目で、原作は新田次郎の同名の小説。同作では今川氏出身の家臣で、どちらかと言えば軍師よりも間諜としての色彩が濃い設定となっている。また隻眼でもなく足も不自由でないなど、『甲陽軍鑑』に代表される勘助像とは一線を画したものとして描かれている。


当初は今川義元に甲駿両国の二重間諜を命ぜられるも、晴信(信玄)の器量に触れ後に今川とは決別。桶狭間の戦いでは、織田側の誘いに乗った信玄の命により今川本隊の動きを織田側に伝え、間接的ながらもかつての主である義元を死に追いやる事となる。

最後の活躍となる第四次川中島の戦いでは濃霧の発生する頃合いを予測し、別働隊の出陣に先んじて偵察に出るも、上杉軍の動き出した事を別働隊に報せるべく敵中突破を試み、その最中に壮絶な最期を遂げた。


前述の通り間諜としての役割が主体であったため、同作における「啄木鳥戦法」は勘助ではなく馬場信春が献策したものとして扱われている。


「風林火山」

風林火山

演:内野聖陽

2007年放送の第46作目で、原作は井上靖の同名の小説。堂々の主役に抜擢された同作では、前出の『武田信玄』とは対照的に『甲陽軍鑑』をベースとした人物像が構築されている。


「孫子」に通じた軍略家として各地を放浪、仕官先を探し、時には今川・北条の客将として働いていたが、隻眼であり方足が不自由という理由から正式に召し抱えられることがなく、鬱屈した日々を送る屈折した性格に描かれている。


転機となったのは恋人を甲斐国主・武田信虎に殺害されてからだった。

信虎の長男・晴信は父に廃嫡をにおわされ、また暴君である父に人望がないことから家臣団に信虎を追放することを勧められていたが、それでも父を追放することにためらいがあり、踏ん切りをつけることができなかった。

ためらう晴信の前に復讐に燃える勘助が現われたことによって、ようやく踏ん切りをつけた晴信は父・信虎を駿河に追放。その後しばらくして勘助は晴信に仕えることとなった。


「兵者詭道也」の言葉に表されるように、勘助の用いる軍略は「人の心理の隙」を突くものであり、必ずしも武田家臣団に認められたものではなかったが、晴信の信頼を得て徐々に地歩を築いていく。

また同作では諏訪頼重の切腹、桶狭間の戦いにも暗躍しているほか、諏訪姫(同作では由布姫として登場)にも想いを寄せており、晴信の四男・諏訪勝頼が誕生した後はこれを立派な武将とするよう、力を尽くすことを誓っている。


最後は第四次川中島の戦いで立案した「啄木鳥戦法」の失敗を受けて、自ら部隊を率いて奮戦するが討死、物語はここで終了する。


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