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石原莞爾の編集履歴

2021-04-14 01:52:22 バージョン

石原莞爾

いしわらかんじ

石原莞爾とは、日本の陸軍軍人。

明治22年1月18日昭和24年8月15日日本陸軍軍人で最終階級は陸軍中将


生涯

山形県出身。国柱会の熱心な会員で、法華経に傾倒。満州関東軍参謀となり、満洲事変を実行、成功し「五族協和」「王道楽土」のスローガンを掲げて満州国の建国を主導する。


日本とアメリカの間で大量破壊兵器による世界最終決戦が行われ、それによって日米どちらかが世界統一を成し遂げる、という壮大な構想を描いた。一瞬にして都市が消滅する兵器が登場し、人類の人口も半分に減るかもしれない、といった発言は、後の核兵器出現と核戦争の危機を予言していた。ただし石原自身は、破滅的な世界戦争を法華経の原理に基づいた世界統一実現のチャンスと考えていたようである。


  • ”諸君のように大きな変化の時代に生まれた人は非常に幸福であります。この幸福を感謝せねばなりません。ヒットラーナポレオン以上になれる特別な機会に生まれたのです。

石原のこうした構想は戦時中に出版された『世界最終戦論』にまとめられた。


満州事変当時石原の上官であった板垣征四郎は彼が認める数少ない人物で、二人は「作戦の石原、実行の板垣」と称されるほどの名コンビで事変を実行した。戦後、東京裁判でA級戦犯として死刑が確定した板垣に宛てて「(板垣)閣下は先に行っていて下さい。私も後を追って三途の川からあの世まで閣下のお供を致しましょう」といった内容の手紙を送っている。


昭和11年の二・二六事件においては叛乱を起こした青年将校たちを即刻鎮圧すべきと主張している。これについて後年の昭和天皇は「石原という男は満州事変を起こしたかと思えば、226事件の対処は全く正常であった」と振り返っており、石原という人物に対する昭和天皇が抱いていた複雑な心境の一端が伺える。


陸軍参謀本部作戦部長の職にあった昭和12年の支那事変に際して、石原は事変不拡大方針を唱えるも、陸軍中央部および関東軍の大勢は事変拡大派であり、方針の対立の末石原は関東軍参謀副長に左遷させられる。

同職の上官が関東軍参謀長の東條英機であり、石原と東條の因縁はここからスタートする。


生真面目なガチガチの軍人肌である東條と、破天荒ぶりのエピソードに事欠かない石原とでは水と油の関係そのものであり、支那事変の方針を巡って意見が対立していたこともあり、2人の関係は決定的に悪化し、以後石原が陸軍の要職を占めることはなかった。


昭和16年に予備役に編入された後、彼の行動は東条によって憲兵に逐一監視されていたという。


第二次世界大戦後の東京裁判では東條と対立していた点から戦犯に指定はされず、証人として呼ばれた。しかし、自ら満洲事変の首謀者であり戦犯に値すると主張した。また、証人として呼ばれた際、「人の話が聞きたいのならそっちから来い」というようなことを言って東京裁判酒田出張法廷を開かせたりもした。


戦後は地元山形で農業をする傍ら、戦争によって世界統一を成し遂げるという自らの戦前の構想を自己批判しつつ日本国憲法9条の擁護やアジアの連携などによる平和的な世界統一を主張した。板垣刑死の8ヶ月後、後を追うように膀胱ガンで満60歳で没した。


人物

大日本帝国陸軍きっての天才戦術家にして奇人・変人であり、その偏屈ぶりを伺わせる逸話が多い。

  1. いつも薄着であり、冬でもよれよれの夏服を着ていた。
  2. 好きな科目の勉強しかしなかったが、成績はいつも一番であった。
  3. 酒をたしなまず、上官にも無愛想であった。飲酒を無理強いしてくる連隊長を怒鳴りつけた。
  4. 昭和19年には、石原の教え子二人が東條英機暗殺を企てる事件が起こっている。石原は東條暗殺に賛成であった。
  5. 仙台幼年学校時代にスケッチの課題に自分のナウい息子を描いて退学になりかけた。
  6. 日本が満州で国力を蓄え、やがてソ連と、最後はアメリカと戦い、勝ったものが世界をリードするという『世界最終戦』たるビジョンを持っていた。
  7. 石原は東京裁判の法廷において、 「満州事変を起こしたのはこの私だ。満州国を作ったのも私だ。なぜ私を戦争犯罪者として裁かん」 と質問し、裁判官を慌てさせた。
  8. 裁判官の 「日本軍の21倍の兵力を持つ中国軍と戦うという無謀な作戦を立てたのはなぜか」 という質問に対し、 「戦争というのは数ではない。作戦だ。もしこのたびの戦争、私が指揮をとっていたならば、その裁判長の席に座っていたのは私で、ここに立っていたのは君だったんだよ」 と、『自分ならアメリカに勝てた』と受け取れる発言をし、それに対し誰も文句を言えなかった。
  9. 石原が戦犯からはずされたのは、裁判官がもっとも聞きたかった 「この戦争でもっとも罪深い戦争犯罪者は誰か」 という質問に『東條英機』と答えさせるためであったが、石原は 「それは、アメリカ大統領トルーマンである。罪のない人間を、原子爆弾によって殺しまくり、20万人も殺して、それが正義だと言えるのか」 と答えた。

実際の所は彼の主張する思想においてソ連と決戦し勝つという事はノモンハンにおいて無理があると判断されている。

これは基礎的な工業力などはソ連に負けている事を加味しまた戦争実行においてはアメリカなどの資源をもつ国の協力がなければ実現が不可能であるが満州事変および満州国を独立させる動きはそれらと対立する形となった。


ソ連はドイツとの戦争においても日本の備えとして多大な戦力を極東方面に温存している

アメリカと開戦せずソ連を挟み撃ちにすればよかったなどという考えがあるかもしれないが欧米との摩擦で資源の確保が難しい状態でソ連と戦争して勝てるか?自体が難しい



またアメリカ戦において彼が指揮をとった場合勝てるかについても無理である。

ドイツとソ連は一年以内で主力がソ連に敗北したのであとは消耗戦の末ドイツが負ける。

アメリカはドイツを降伏させた後日本に対応すればよくまた日本がアメリカやオーストラリアに陸軍戦力を展開する能力も余裕もない。

そしてアメリカは戦時体制に移行した後は海を埋め尽くす艦隊と航空戦力が史実通りに太平洋域に展開する。


では満州国とはなんだったのか?

満州国自体日本の手を離れれば結局の所欧米やソ連の干渉更に対日感情の悪化の影響もあり日本の勢力圏から離れる可能性が高い。

しかしそれらの維持の為にアメリカの摩擦を産み日本の権益の排除につながる。

軍事は多少できても要は外交はできないのに軍事力を暴走させた人間という事です。

国際感覚がないのが国家戦略において致命的であるという実証になると言えます。

そして彼の思想と戦略は間違いではあったが本当の難局において彼が責任のある立場にいなかった事が評価を曖昧にし、いまだに天才的な戦略家のような扱いが生まれている原因だと思われる。

思想があり独断専行で暴走する人間とは軍人にしてはならない典型的なタイプではないでしょうか?

創作作品においては

その特殊な立居地から、太平洋戦争期を扱った創作作品では重要人物として登場することが多い。当時の軍内部では、特異な意見を持つ高級将校であり、日本人主人公たちの協力者として非常に都合がよい。東條英機など後の東京裁判で戦犯とされた者達と対立していたことなどもそういった立居地を強力にしているといえる。


安彦良和氏の漫画、『虹色のトロツキー』(連載は創価学会の出版社である潮出版の雑誌)では、昭和初期にまだアジアでうろうろしているらしいトロツキーを満洲の大学へ呼び、ソビエト連邦を分断せんとする計画に奔走する。


帝都物語』では、法華の教えに基づく世界の経営をする者として、二・二六事件を指導する、北一輝(お題目を唱えると奇跡が興る人と言う設定)と対決する。また、ついでにフリーメーソンによる謎の帝都壊滅計画も処理せんとするが。


江川達也氏の漫画『マンガ最終戦争論』では、実際の彼の晩年の様子を作家宮沢賢治などの関係と織り交ぜながらリアルに描かれている。


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