戦国時代から安土桃山時代、江戸時代初期の戦国武将。諱は重友(しげとも)。
生涯
天文21年(1552年)、摂津(大阪)で高山友照の嫡男として生まれ、キリシタンだった父により洗礼を受け、「ユスト(ジェスト)」の名を授かった。
友照は三好長慶と松永久秀に従っていたが、永禄11年(1568年)に織田信長が足利義昭を奉じて上洛し義昭が将軍になると、摂津は池田家や和田家などの地元豪族が争い、さらに荒木村重が侵攻して和田家は破れたが、和田家と高山家が対立となり、高山家が和田家を滅ぼし、高山家は村重に従い、1573年(天正元年)に摂津高槻城主となった。
天正6年(1578年)、村重が信長に反旗を翻し、高山家もどっちに付くか城内で分かれたが、右近は信長の下へ出頭し、高山家とその領地は安堵された。
本能寺の変後では羽柴秀吉につき、賤ヶ岳の戦いで守勢で苦戦を強いられ、小牧・長久手や四国などの戦いにも参戦。
天正13年(1585年)に播磨国明石城主となったが、豊臣秀吉がバテレン追放令を出し、各地のキリシタン大名は棄教したが、右近だけは棄教せず、それまでの地位や財産を投げ捨てて出奔してしまった。その後は小西行長や前田利家の庇護を受け、小田原城攻めでは前田勢に従軍し、関ヶ原の戦いでは東軍に与した。
江戸時代、加賀で暮らしていた右近だったが、慶長19年(1614年)に徳川家康のキリスト禁教令を受け、加賀を去って内藤如安とともにフィリピンのマニラへ向け国外退去した。現地ではスペイン人のフィリピン総督であるファン・デ・シルバ達から厚い歓迎を受けたが船旅の疲労や慣れない気候の為、間も無く病気に罹患して慶長20年1月8日(1615年2月4日)に客死した。享年64歳。
世俗に惑わされずただひたすらに信仰に生きたその姿勢から、カトリックにおける聖人の一人として叙されている。
人物
非常に真面目で誠実、簡単に志を曲げない性格だったと言われ、領民や各武将から高く評価された。
キリスト教徒として領内で布教していたが、それに伴って神社寺院の破壊も多く、キリスト教徒が領内で多くなりすぎたために寺社の数も減った。
茶人としても茶道に傾倒し、千利休の高弟の一人にも数えられ、名を「南坊」と号した。