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細川忠興の編集履歴

2013-03-16 21:53:26 バージョン

細川忠興

ほそかわただおき

日本の戦国武将。

細川忠興は、日本戦国時代から江戸時代武将大名


概要

織田信忠豊臣秀吉徳川家康の家臣であり、細川藤孝(幽斎)の長子。


足利義昭織田信長が対立すると、忠興は父・幽斎と共に織田信長に従い、信長の嫡男・信忠に仕えた。

1577年、15歳で信長の雑賀攻めに加わり初陣。松永久秀が謀反を起こすと、久秀についた片岡城を明智光秀と共に落とし、信長から評価される。

1579年、一色義定を滅ぼす。また、明智光秀の三女・玉(珠とも。後の細川ガラシャ。以下玉)と結婚。


本能寺の変に際して、忠興は光秀から味方に誘われるが拒否。その後、豊臣秀吉に仕える。

秀吉が死去した後の関ヶ原の戦いでは徳川家康率いる東軍に属す。黒田長政と共に石田三成の本陣と相対し、激戦を繰り広げた。


大坂の役では徳川家康に属す。その後、家督を三男の忠利に譲り、出家して三斎と名乗る。


性格

父・幽斎はすぐれた教養人・文化人として知られており、その子である忠興もたいへんな教養人・文化人であった。さらに、頭脳明晰で政治や情報戦などに優れ、戦上手としても知られた文武両道の武将であった。

千利休の高弟(利休七哲の一人とされる)でもあり、和歌など芸術方面に才能を発揮し、武具のデザイナーとしても有名だった。「(茶)道具を見せてくれ」と挑発された相手に、「当家における道具とはこれだ」と武具を延々と見せた事もあり、本人は武門の家柄であると思っていたようだ。ただし同じ逸話が幽斎にも残っており、真偽のほどは不明。


妻・玉との逸話

Pixivの作品内では、忠興をヤンデレとして扱っているものが多い。これは以下の逸話からだと思われる。


  • 本能寺の変によって玉の父・明智光秀が敵となった。この場合通常は妻を家に戻すのが普通であるが、忠興はこれをせず、丹後の味土野(現京都府京丹後市弥栄町)に幽閉した。
  • 玉はカトリックに興味を持ち、忠興が九州に出陣している間に密かに切支丹となる。これを知った忠興は激怒し、「棄教しなければ侍女の鼻を削ぎ落す」とまで言ったが、玉は棄教を拒否したため、侍女の鼻をそぎ落とした。
  • また玉は大変な美人だったとされ、忠興はその美しさを他の者に見せないため、玉を家の奥にやり、外出も許さなかった。しかし二人が食事中、庭師が玉を見てしまい、それに対して忠興が激高、玉の姿を見た庭師を殺した。庭師の首を玉の前に置いたが、玉は平然と食事を進め、それを見た忠興が「首を前にしても平然としているとは、お前は蛇のような女だ」と言うと、「鬼のような夫には蛇のような女が似合いでしょう」と返したとされる。
  • 当時料理のなかに髪が一本でも入っていれば、料理人はクビにされてもおかしくないほどの重罪であった。あるとき髪が入っているのを見つけた玉がそれを隠した。それを見つけた忠興は嫉妬で激怒して、料理人を殺してしまった。
  • 関ヶ原の戦いに際して忠興は東軍につき、妻・玉は西軍に命を狙われることとなる。当時は敵将の妻を略奪して自分の妻とするケースがあり、玉もまたその対象となりうる状況だった。そのため忠興は玉に死を命じる。玉が自分以外の男に渡る事を恐れたためといわれている。

上記のとおり、妻の実家が敵となった場合、通常は妻を実家に戻すことが多い。その理由として、妻は嫁いでも実家の人間であり、多くは内通の嫌疑を避けるためだが、このとき玉の姉も明智には戻されていないため、戻していないからといって特別な処置とはいえない。ただ敵になっただけではなく、敵になった理由が謀反であったため、玉が殺されてもおかしくない状況であった。味土野に幽閉したのはむしろ玉を守るためであると言える。


主人に隠れて宗教を変えるというのは大変勝手な行為であり、また玉が切支丹となった当時、禁教令が出ていたため、謀反の嫌疑をかけられる危うさまであった。忠興が玉に棄教を命じたのは細川という家を守るためであり、実際禁教令が緩くなってあとは玉のため屋敷内に教会を建てたりもしている。


忠興が玉を奥に隠したのは、玉が切支丹であることを隠すためであり、庭師は切支丹としての玉を見てしまったために殺されたという説がある。庭師を殺したあとの二人のやりとりを見ても、この時点の忠興は愛妻家とは言いがたい部分がある。

また料理人に関しても、玉が禁教令が出ているときに切支丹である、それをばれないようにしたいという、精神的にぴりぴりしたときだったため、玉が料理人を庇ったことを、料理人が切支丹であるから庇った、と誇大解釈をしたためという説がある。あるいは当時料理人としてあるまじきことをした料理人を、ただ許せなかっただけかもしれない。


「当時は敵将の妻を略奪して自分の妻とするケースがあり」とあるが、このとき忠興という主人だけではなく、上杉討伐のため本軍もいない状態であった。家老も小笠原秀清を残すのみで家人はほぼ出払っており、そんなときを狙って敵将の妻を人質にとることは当時であっても卑怯な行いであった。

またこのとき他の武将の妻は逃げているのにも関わらず、玉だけが逃げずに死んだことを比較して「玉が自分以外の男に渡る事を恐れたため」と言う人もいるが、このときの細川はなんとか嫌疑を晴らしたものの、直前に謀叛を疑われたばかりであり、徳川に誠意を示して悪いことはなかった。忠興が玉に死ぬことを命じたかは定かではないが、実際玉がここで死んだことにより、西軍は外聞が悪くなり他の武将の妻を人質にとることはできなくなった。



忠興が「嫉妬」したこと、「愛妻家」であることはすべて想像の域を出ないことであり、ヤンデレや愛妻家というのは作品にする際の一種のキャラクター付け、あるいはその強調と考えたほうが無難だろう。


但し気性の荒いところがあるのはよく見受けられるため、どこかやりすぎている感があるのは否めない。


評価

現代のサブカルチャー系の情報交換の場にて、忠興の愛好者は多い。

忠興の性質については諸説あるものの、その政治手腕、頭の回転の速さ、芸術センス、愛妻家ぶりなどに人気があるほか、性格の裏表のギャップに惹かれる人も多い。

忠興の性格面について、物腰の良い教養人が何かをきっかけに突如として惨忍な男に豹変する様子は、一部の愛好者達から「スイッチが入る」などと比喩される事がある。



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