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清水次郎長の編集履歴

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清水次郎長

しみずのじろちょう

江戸時代末期から明治時代にかけての侠客・起業家。

概要

生年:文政3年1月1日(1820年2月14日) - 没年:明治26年(1893年)6月12日


本名「山本長五郎(やまもと ちょうごろう)」。「次郎長」の名前の由来は、幼少時代の仲間に「長」(正式の名称は不明)という子供がいたために周囲が長五郎を「次郎八の家の五郎だから」と言う理由で次郎長と呼ばれるようになったことからきている。


浪曲、映画で「海道一の親分」として取り上げられ人気を博する。「清水二十八人衆」という屈強な子分がいたとされる。


実物の写真によれば、器量は良くない風貌であった。


生涯

駿河国有渡郡清水町美濃輪町(後の静岡県静岡市清水区)の船持ち船頭・高木三右衛門(雲不見三右衛門)の次男に生まれる。母方の叔父にあたる米穀商の甲田屋の主・山本次郎八は実子がなく、次郎八の養子となった。次郎八は天保6年(1835年)に死去。次郎長は妻帯して家業に従事するが一方では博奕を行い喧嘩も繰り返しており、天保14年(1843年)、次郎長は喧嘩の果てに人を斬ると、妻を離別して実姉夫婦に甲田屋の家産を譲ると江尻大熊ら弟分とともに出奔し、無宿人となる。諸国を旅して修行を積み交際を広げ成長した次郎長は清水湊に一家を構えた。


弘化2年(1845年)には甲斐国鴨狩津向村(市川三郷町)の津向文吉と次郎長の叔父・和田島太右衛門の間で出入り(現代で言う「抗争」)が発生し、次郎長はこれを調停している。弘化4年(1847年)には江尻大熊の妹・おちょうを妻に迎え、一家を構える。安政5年(1858年)12月には甲州における出入りにおいて官憲に追われ、逃亡先の名古屋で保下田久六の裏切りに遭い、安政6年(1859年)には尾張知多亀崎乙川において久六を斬殺する。その後は富士川舟運の権益を巡り甲州博徒と対立し、黒駒勝蔵と抗争を繰り広げる。


慶応4年(1868年)3月、東征大総督府から駿府町差配役に任命された伏谷如水より街道警固役を任命され、この役を7月まで務めた。同年8月、旧幕府海軍副総裁の榎本武揚が率いて品川沖から脱走した艦隊のうち、咸臨丸は暴風雨により房州沖で破船し、修理のため清水湊に停泊したところを新政府海軍に発見され、見張りのため船に残っていた船員全員が交戦によって死亡した。その後逆賊として駿河湾に放置されていた遺体を、次郎長は小船を出して収容し、向島の砂浜に埋葬した。新政府軍より収容作業を咎められたが、「死者に官軍も賊軍もない」と言って突っぱねたという。当時、静岡藩大参事の任にあった旧幕臣の山岡鉄舟は これを深く感謝し、これが機縁となって次郎長は明治において山岡・榎本と交際したとされる。


博打を止めた次郎長は、清水港の発展のために茶の販路を拡大するのが重要であると着目。蒸気船が入港できるように清水の外港を整備すべしと訴え、また自分でも横浜との定期航路線を営業する「静隆社」を設立した。この他にも県令・大迫貞清の奨めによって静岡の刑務所にいた囚徒を督励して現在の富士市大渕の開墾に携わったり、英語塾を開設したりした。


ただし血腥い事件も彼の周辺で起こっており、次郎長不在中に久能山の衛士に3番目の妻を殺されている。また有栖川宮に従っていた元官軍の駿州赤心隊や遠州報国隊の旧隊士たちが故郷へ戻ってきた際には駿河へ移住させられた旧幕臣が恨みを込めてテロ行為を繰り返す事件が起き、次郎長は地元で血を流させないために弱い者をかばっている。


明治17年(1884年)には「賭博犯処分規則」により逮捕され、懲罰7年・過料金400円に処せられ、井宮監獄に服役する。関口隆吉やなどの尽力などにより、刑期の満了を待たずに仮釈放になった。


明治26年(1893年)、風邪をこじらせ死去。享年74(満73歳没)。戒名は碩量軒雄山義海居士。


清水次郎長を題材とした作品


次郎長放浪記 - 阿佐田哲也の小説。また、それを原作とした原恵一郎の漫画。後者のほうの次郎長は原のキャラデザにより美男子に描かれている。


次郎長三国志


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