CV:森谷里美
イラストレーター:九十九
概要ですの~
おしとやかで、ちょっとのんびりした雰囲気の城娘。普段は目を閉じている。
鹿児島城の別名が鶴丸城であることから、戦闘時の背中には小さな鶴の羽が生えている。また、胸元と頭には蓮の花が飾られているが、これは実際の鹿児島城の堀にはたくさんの蓮が植えられており、時期がいいと満開の蓮の花が見られることからと思われる。持っている武器は「ガトリングフランキ砲」。
前述のようにいつものんびりした雰囲気で、間延びした口調でプレイヤーを酒宴に誘う。戦場でも基本的におっとりとした様子は変わらない。が、必殺技の「群鶏十一鶴」を放つと、いつも閉じている目が開眼。鋭い目つきで見据えながら、ガトリングフランキ砲を構え、一気に広範囲の敵を攻撃する。
最大の特徴は殿(しんがり)の高さ。今のところ、全城娘の中でも3位(90)を誇る。そのため、敗走して殿を任せるのにもうってつけである。たとえ戦場に出さなくてもいざというときの殿要員として連れて行くプレイヤーも多いだろう。おそらく、この殿の高さは関ヶ原の合いでの島津義弘による「島津の退き口」と呼ばれた果敢な退却戦によるものと予想される。
反面、モチーフとなった鹿児島城が事実上の平城の上、堀も石垣も大した規模ではなかったことから、防御力は薄い。敵のリーチ外からズドンとやるのが、薩摩式の戦い方である。
薩摩式の関連イラスト、じっくりお見せしますの~
史実
江戸時代初期に島津氏によって築かれた、上山城跡である城山とその麓に築かれた鹿児島城(鶴丸城)で構成された平山城である。平地にあることから平城とする説、後に城山と名付けられる山の麓にあり、防衛拠点としての城は前述の上山城であったことから、山城とする説もある。
北に本丸、南に二の丸が位置していたが、単純な構造で防御には問題のある「屋形造」であった。そのため裏山である城山を籠城のための「後詰めの城」としていた。しかし、城山に築かれた上山城跡は城主・島津常久(忠恒の叔父・歳久の孫)がが若くして病死した後は事実上、廃城となり、城山は立ち入り禁止の「聖域」として扱われた。
1601年(慶長6年)に島津忠恒(家久)により徳川家康への防衛手段として築城される。しかし、島津家は外様大名として存続を許されることとなり、忠恒の代に鶴丸城が実戦で用いられることはなかった。海に近いことが災いして、幕末の薩英戦争ではイギリス軍艦から砲撃を受け炎上している。
元々、薩摩は風水害が多い上、高温多湿な気候が災いしてシロアリが大量発生した。そのせいで、何度も建物は倒壊した。その都度、立て直しがなされたが、1874年に焼失。明治維新の後であり、再建されることはなかった。
その後は、出丸跡に西郷隆盛が私学校を建てるものの、西南戦争によってそれも失われた。その後、鹿児島城跡が利用されるのは、1901年になってから。第七高等学校造士館(現・鹿児島大学)の校地として使用される。第二次大戦後は新設された鹿児島県立大学医学部、後に国立鹿児島大学と合併して鹿大医学部の敷地になる。現在は本丸跡に鹿児島県歴史資料センター「黎明館」、二の丸跡には鹿児島県立図書館、鹿児島市立美術館、鹿児島県立博物館などが建っている。
現在、鹿児島城の往時をしのぶことができるのは本丸・二の丸の石垣と堀、大手門跡の石橋だけである。大手門は1990年の大河ドラマ『翔ぶが如く』の撮影時にセットが作られたが、それも終了すると撤去された。現在、大手門の復元プロジェクトが鶴丸城「御楼門」復元委員会によって進められている。