概要
コンテ・ディ・カブール級戦艦に引き続き、イタリア海軍が第一次世界大戦中に竣工させた3番目の弩級戦艦の艦級である。ちなみに、1番艦のカイオ・ドゥイリオは、イタリア戦艦の創生期に建造されたカイオ・ドゥイリオ級戦艦 (初代)の艦名を受け継ぐ2代目にあたる。
解説
基本的な設計は、コンテ・ディ・カブール級と変化ないが、副砲群が13.5cm口径へ強化されている。理由として従来の12cm砲ではオーストリア=ハンガリー帝国海軍が整備している水雷巡洋艦や大型化した駆逐艦への打撃力に不安があり、速射性能を犠牲にしても確実に巡洋艦級を撃破可能な15cmクラスの副砲が必要になったためである。また、装備形式も変化しており1番・2番主砲塔直下に放射状に左右にケースメイト配置で4基4門ずつ、4番、5番主砲塔直下の左右に放射状に4基4門ずつの片舷8基計16基16門を装備した。カブール級では首尾線に6門以上指向できる配置となっているが、本級では艦首尾方向に指向できるのは4門と減少しているが逆に左右舷側方向に最大8門が指向できるようになっている。これは、艦隊戦闘時に縦列陣形を用いた時に舷側方向へ最大限の火力を発揮できるようにする工夫である。
その他に対水雷艇迎撃用に「7.6cm(50口径)砲」を前級と同じく13門、「7.6cm(40口径)高角砲」を6門、45cm水中魚雷発射管を単装で2基を装備した。船体底部はカブール級と同様に艦首と艦尾が斜めになった分の重量を軽減できるカットオフ方式を引き続き採用し、舵は主舵と副舵を直列に装備した。
終焉
近代化改修後、第二次世界大戦に参加、1940年7月に就役したばかりのカイオ・ドゥイリオは英国艦隊による「タラント空襲」により魚雷一発を受け小破・大浸水したので排水後に曳航されドック入りとなり1941年5月まで修理となった。かわりにアンドレア・ドリアが穴埋めとして1940年10月に就役し、補充された。 大戦初期に地中海方面で英軍補給路の妨害作戦や枢軸軍の船団護衛に従事し、特に本級2隻が同時に参加した作戦として第1次シルテ湾海戦が有名である。1942年2月にマルタ島付近で作戦活動に従事したが、同年の夏ごろにイタリア海軍の燃料事情が悪化したため、本級2隻はタラント港湾に停泊して練習艦任務に就くこととなり、乗員の多くはヴェネト級と護衛艦艇に配属となった。しかし、1943年にイタリア本土が連合軍の攻撃目標となってからは、再び現役に復して移動砲台として活動した。 同年9月にイタリアの降伏を受けてタラント港を発ち、9月10日にからマルタ島へ到着した。その後、紆余曲折(ソ連がイタリア戦艦全艦の保有を連合国側に主張したため、処理が長引いた)の末、1944年6月にイタリア海軍籍に復帰し、シチリア島のアウグスタ港にて練習艦任務にあたった。
第二次世界大戦後は、イタリア艦隊の主力艦として1947年5月1日から1949年11月まで艦隊旗艦となり、次いでアンドレア・ドリアが同年12月から1951年3月9日まで旗艦任務を引き継いだ。その間にNATO演習にも参加し、イタリア海軍の健在ぶりを示した。しかし、老朽化には耐えられず2隻とも1956年9月に除籍され、11月にスクラップ処分されて、44年余にわたる長い艦生を終えた。
同型艦
No | 艦名 | 工廠 | 起工 | 進水 | 竣工 | 戦没 |
一番艦 | カイオ・ドゥイリオ(2代目) | カステラマーレ・ディ・スタビア | 1912/02/24 | 1913/04/24 | 1915/05/10 | 1956/11/01(解体) |
二番艦 | アンドレア・ドリア | ラ・スペーツィア | 1912/03/24 | 1913/03/30 | 1916/06/13 | 1956/11/01 |
関連タグ
前級:コンテ・ディ・カブール級戦艦 次級:ヴィットリオ・ヴェネト級戦艦