概要
カリフ(calif)アラブ語、ハリーファ(Khalifa)スンニ派ではイマーム(Imam)とも
イスラム教の皇位、首位権を持つ。『(ムハンマドの)後継者、代理人』の意味。キリスト教における『キリストの代理人』であるローマ教皇に匹敵する位であり、『教皇』と訳してよいと考える。
【歴史】
【ムハンマド家カリフ時代】
1500年前、(2015年から大体数えて)アラビア半島を共和国ローマ(ビザンツ帝国)の支配を絶ち、イスラム教義とそれを実践するイスラム軍により平定し統治者として君臨した開祖ムハンマドの没後、(ユダヤ教、キリスト教の創設者と違うのは、実力(武力)で帝王になったこと。)いとこにあたるアブー・バクルがイスラム教と『ムハンマド王国』(仮称、イスラム世界にとって理想郷とされ、シーア派(アリー党)が目指すべき神聖国家)の執政者となったとき自らを『後継者(カリフ)』と名乗ったことに始まる。
以後カリフは代表の位となり、代々のムハンマド家あるいは親戚が世襲したが、4代カリフ、『アリー』が権力闘争によりムワーウィア・ウマイヤ(ウマイア国初代君主)の一派に殺害された。これにより『ムハンマド一族』によるカリフ世襲が終わる。(この後、イスラム教徒(ムスリム)に中に、4代アリーを神聖視し、ウマイヤが築いた権力とその後のイスラム教国を邪道視し、自身らが正統なイスラム教徒とする傾向を示した『シーア派(アリー党)』が誕生する。(全イスラム教徒民の1割)他、教義に忠実な支流派のことをシーア派とよぶ。(全イスラム教徒9割))
【歴代カリフ・イスラム国の時代】
アリーを殺害したムワウィーアー・ウマイヤの一党が国家樹立をする(ウマイヤ帝国)、その時ウワーウィーアーは自身の君主号として、全イスラム世界の統治者の後継(ムハンマド王国の後継国家)としてカリフ皇位を用いる、その後時代にイスラム諸王国が勃興をしたときに名乗る君主号として【カリフ皇位】を用いることが慣例となった。
【役割の変化】
イスラム世界が歴史において長い時代の中で体制や制度が更新されゆくうちに、政治的帝王(スルタン・マリク・シャー)などが最高の権力者とされ、カリフ(教皇)はイスラム教世界(ウンマー)と信徒民(ムスリム)の象徴とされるようになった。
【絶頂期と凋落】
カリフ教皇の権威が強大となったのはメソポタミア(イラク)地域にシーア派が中心に立てたアッバース国(750-1258.都バグダット)やアナトリア(トルコ)地域にスンニ派が中心に立てたオスマン帝国(1299-1922.都イスタンブール)などがある、特にイスラム教史上最大の版図を築いたオスマン帝国のカリフ教皇の権威はローマ教皇を上回り絶大であった、イスラム美術・文化も革新した(しかしオスマン帝体制では『カリフ教皇』より『スルタン帝王』のほうに重きが置かれており、特にシーア派からは全否定されていたと思われる)
当時のヨーロッパでは迫りくるイスラム教国家のキリスト教市民への蹂躙への恐怖は共産党国家の徹底的蹂躙に似たものがあったようだ、とくに少年たちを強引に連行して、改宗し神聖的軍隊に仕立て上げたり、美少年とかをスルタンや貴族の愛玩にするという習慣は、歴史上の帝国でもあまりここまで公的なものとしてを作れなかっただろう。中東やアラブの人は今現在も金髪碧眼とかに惹かれている節がある。(どこの人間も性癖はいろいろあるが。)
しかし、時が立つと磐石なオスマン体制も停滞、腐敗、陳腐により国力は停滞すると同時にカリフの権威も急激に落ちた。
【消滅】
1922年にオスマン帝国はトルコ革命によって解体すると、旧統治領だったイスラム地域の首長がカリフ教皇を名乗ることがあったが、一時的なものだった。9割支流派のスンニ派の認識では【カリフは終わった】という認識が浸透していたので、支持を得ることができずカリフ教皇のタイトルは消滅した。
職掌的には『キリストの代理人』とされるローマ教皇(Pope)に匹敵する位をもちながら、ついに『バチカン市国』的な形でカリフ位を残すことができなかった。
イラストなど
関連
イスラム国・・・2014年に中東において一方的に国家宣言した、イスラム原理暴力集団。『カリフ制イスラム原理主義国家』のを標榜する。テロリストの親玉は『カリフ(教皇)』を名乗った。客観的にいうと『カリフ』はテロリスト風情が名乗っていい位ではない。
【参考文献】
『ブルジュ・ハリファ』(ハリファのスペル)
『研究社 マイペディア辞典』
『広辞苑』