朝倉孝景
あさくらたかかげ
宗滴の補佐
1493年、朝倉家第9代目当主・朝倉貞景の子として誕生。6人兄弟の長男で弟に景高(景鏡、在重の父)、景郡、景紀、道郷、景延がいる。法名は宗淳。
1512年、父・貞景が突如急死した為に19歳で10代目当主に就任。一族の朝倉宗滴の補佐を受けながらも周辺国の加賀・美濃・近江・若狭に出兵を行い、軍事的優位性、政治的影響力を相手に見せつける事を行った。
1520年代には細川高国が彼の元に頼ってきたが、孝景はこれに反対した。理由は大永8年の3月に突如撤兵した事が対立に繋がった。
1531年には宗滴を派遣して加賀一向一揆を攻撃を行い、翌年には六角家と和睦し、更には加賀一向一揆と和議を成立させた。
左に文道、右に武道
当時畿内勢力は戦乱が激しかったが、越前は朝倉氏の実力の内に比較的平穏であった。その朝倉氏を頼り、都から貴族、文化人等が一乗谷に避難及び滞在した。京都出兵や将軍家との付き合い、朝倉の実力に対する将軍家からの厚遇を含めて朝倉家はその軍事力に加えて社会的地位も向上させた。
一乗谷には都風の文化・社交が流入し、庶民にも馴染んでいった。また連歌師達は孝景の事を
「治世よろしく、将帥に兵法を論じて厳、詩歌を評して妙である」や「文道を左に、武道を右にした風流太守」と文武において賞賛されている。 蹴鞠は飛鳥井流伝授、和歌は三条西実隆に批評を依頼した。 更には家臣団も、武の道とは別にこの文化に親しんだことが伝わっている。
一方で「京都風文化」に集中する筈も無く家中にては当時「軍略」「剣術」の研究が盛んであったと伝えられている。 武をも疎かにしないからこそ、後に中条流を主とする朝倉家中に縁を持つ剣の道が、研鑽される事になった。
また京のさまざまな医学者を招いて、医学知識を積極的に精通した。更には明の医学書「八十一難経」を注釈し、版木本として一乗谷にて出版した。
景高と対立
1535年には土岐政頼と土岐頼芸兄弟の守護職を巡る闘争に関与し、政頼方に従って戦った。しかしこの頃から、父の遺領を巡って弟・景高との関係が次第に悪化する。
1539年には景高が突如反対運動を起こしたが、孝景は朝廷へ御所修理料百貫文、将軍家へ五十貫文を送り、景高の追放を願い出た。
9月には景高は京から追放されたが、なおも本願寺、一向一揆、若狭武田氏、尾張斯波氏らと反孝景を画策したが、本願寺が反対した為に失敗に終わった。
1544年には土岐政頼の子・頼純を美濃守護に就任させる為に織田信秀と結んで土岐頼芸と斎藤道三を攻めている。
1548年、波着寺への参詣の帰途に病に倒れて死去した。享年55歳。家督は息子・延景が継いだ。