概要
長波は大阪・藤永田造船所で1942年(昭和17年)3月5日進水、同年6月30日に竣工した夕雲型駆逐艦の4番艦。竣工とともに横須賀鎮守府籍となり、同じ夕雲型の巻波・高波により第三一駆逐隊を編成し、第二艦隊第二水雷戦隊(二水戦)に所属した。
ルンガ沖夜戦での活躍
最も有名な戦績として、ルンガ沖夜戦が挙げられる。長波は司令官・田中頼三少将座乗の第二水雷戦隊旗艦として、戦隊合わせて米重巡1隻撃沈3隻大破、戦隊の損失は高波のみという圧勝を得たが、この際、部隊の態勢を立て直しヒットアンドアウェイのような形で魚雷を放った後退避した本艦の行動が、のちに上層部や僚艦から白い目で見られる結果を招く。またこの夜戦の主たる任務は輸送作戦であり、戦闘ではなかったこともあり、結果的には肝心の輸送任務に失敗している。ただ根本の問題は、作戦指揮官でもあった田中少将が「水雷戦隊の本分は敵艦隊の撃滅で、制空権すら確保できない状況での輸送任務で消耗するのは論外」だと、海軍の作戦方針である鼠輸送(ドラム缶輸送)に猛反対していた点にあった。これこそが正論なのだが、当時のソロモン海域の情勢はそれを許さず、ルンガ沖夜戦ののちもドラム缶輸送を何度も繰り返すハメになった。
その後戦力増強のために編入された照月に旗艦を移し、再びドラム缶輸送作戦を行うが、ここで照月が雷撃による致命傷がもとで自沈してしまい、長波は再び二水戦旗艦を継承する。ドラム缶輸送はまたしても失敗に終わり、直後に田中少将は更迭されてしまった。
ここまでの田中少将と長波の行動に対する評価は日米で割れ、日本側はこれらの行動を酷評していたが、対する米国側は逆に高く評価した。
ルンガ沖夜戦ののち、長波はキスカ島撤退作戦に参加する。濃霧のために初霜と衝突したものの損傷は軽微で、作戦成功に貢献した。しかし、その後ラバウルにて爆撃を受け艦尾を損傷、航行不能になったため水無月によってまずトラックに曳航され、トラックからは長良に曳航される形で帰国、修理を受けた。
この2週間後、僚艦であった巻波・大波がセント・ジョージ岬沖海戦で沈没し、入れ替わりに岸波・沖波・朝霜が第三一駆逐隊に編入された。
レイテ沖海戦群で没する
最後の戦いは1944年10月23日に生起したレイテ沖海戦群である。
長波はこの戦いにおいて、愛宕を撃沈した米潜水艦ダーターが座礁しているのを発見し、砲撃後に艦内に乗り込み、機銃や写真などの鹵獲品を得る。本艦はこのあと、鹵獲した13mm機銃を装備して最後の戦いに臨んだ。
長波はレイテ島への輸送作戦「多号作戦」で島風率いる輸送隊に合同したが、11月11日、敵機347機の熾烈な空襲をわずか5隻の駆逐艦で迎撃し、弾薬が尽きるまで善戦したものの多勢に無勢とはこのことか、最後は島風らとともに枕を並べて沈んだ。生存者は、この戦いで放棄され漂流していた同型の浜波に一時避難し、レイテ島に上陸している。
現在、長波の慰霊碑は京都市東山区の霊山護国神社境内にある。拝観料が必要になるが、同神社には坂本龍馬の墓があることでも有名なので、ぜひ訪ねていただきたい。