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概要

14隻建造された5500トン型軽巡洋艦の最終型(第3型式)である川内型軽巡洋艦の3番艦。

名称は茨城県内を流れる那珂川に由来する。

歴史

1922年6月、川内型軽巡洋艦2番艦として横浜船渠にて起工。工事は順調に進んでいたのだが、1923年9月に関東大震災が発生。艦体が大破した上に火災に巻き込まれてしまい、工事の中止に伴い一旦は解体されるも再起工され、1925年に3番艦として竣工した。

川内型はもともとは「スプーン・バウ」という、1号機雷対策のための独特な形状をした艦首をしていた。だが、震災で再起工された時期に1号機雷の採用期限が切れたこと、また凌波性に難のある形状だったこともあって、美保関事件で艦種を損壊した神通と同様に、那珂も「ダブルカーブド・バウ」への改修されている。

1927年8月24日、島根県美保関沖での徹夜の夜間無灯火演習中に軽巡洋艦「神通」と駆逐艦「蕨」が衝突事故を起こした。この時「神通」を避けようとした後続の軽巡洋艦「那珂」も駆逐艦「葦」に衝突し、両艦共に大破した。

太平洋戦争の序盤では、後にスリガオ沖海戦で名を馳せる西村祥治少将率いる第四水雷戦隊の旗艦としてマレー・フィリピン方面で活躍する。だが1942年4月、クリスマス島泊地でアメリカ軍のサーゴ級潜水艦「シーウルフ」の雷撃で航行不能となってしまい、名取に曳航されてシンガポールに向かうこととなった(この時に第四水雷戦隊の旗艦任務から外され、由良がその後継として旗艦になった)。

その後、舞鶴工廠にて修理と近代化改装が行われ、1943年4月に戦線復帰。トラック島を拠点に南方での輸送任務や船団護衛に従事した。

そして運命の1944年2月17日、アメリカ軍のバラオ級潜水艦「スケート」の雷撃で航行不能となった軽巡洋艦阿賀野を救援するためにトラック島を出航した直後、航空母艦「バンカー・ヒル」と「カウペンス」の艦載機部隊の猛攻によって艦首が破断し轟沈した。なおこの様子は米艦載機のガンカメラで撮影されており、カラー映像で現存している(動画の0:18から1:10まで)。

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