曖昧さ回避
概要
鎌倉時代中期の刀鍛冶で短刀作りの名手と呼ばれた粟田口吉光により作られた短刀である。
「ホウチョウトウシロウ」と同じ読みをする刀は二振りある。
どちらも徳川家に関係する刀であるが、一方は美術館で保存されているが、もう一方は明暦の大火で焼失してしまっている。また、記録によると明らかに長さが違うため、別刀だと考えられている。資料によっては表記が「庖丁藤四郎」となっている。
現存刀の「包丁藤四郎」
重要美術品として徳川美術館に所蔵。長さは7寸2分(21.8cm)。
表裏に刀樋と連れ樋彫り物。目釘孔3個。中心少し磨上られ尻近くに「吉光」二字銘がある。
敗死したのちに鬼と化した楠正成を切ったとされ、のち足利家の所蔵となり足利将軍家に伝わる。その後大谷吉継が所持し、関ヶ原で討ち死にした後、徳川将軍家に入るが、駿河形見分けで尾張徳川家に贈られる。
以後同家に伝来し、昭和16年(1941年)9月24日重要美術品指定、尾張黎明会所蔵になる。
焼失刀の「包丁藤四郎」
明暦の大火で焼けるが享保名物に載っている記述によると、長さは8寸6分(約26.1cm)。
目釘孔2個。「吉光」二字銘があるとされる。
室町幕府、京都侍所所司代を務めた近江国の多賀高忠は、故実にも通じた文化人でもあり料理もよくした。ある日政敵から鶴の料理を依頼されるが、その男は高忠に恥をかかせようと企んで鶴の腹の中に「鉄箸」を忍ばせていた。高忠はそれを察したが、包丁藤四郎を使い鶴を鉄箸ごと断ち切ってしまい、喝采を浴びたという。
のちに堺の町人所持となっていたのを鳥飼宗慶が買い取り所持。子の与兵衛宗精に伝えた。 この時に本阿弥光心が押形をとっている。この後、豊臣秀吉が召し上げ、上杉景勝が拝領。 秀吉のもとにあった時に本阿弥光徳が押形を取り、慶長16年2月に埋忠寿斎が金具を作っている。のち秀忠に献上。秀忠は家康に贈り、紀州頼宣に与えたが、頼宜は再び将軍家に献上している。将軍家では一之箱に納め御腰物帳の6番目に記載。