明治中期に賓客や外交官を接待するために政府が設けた社交場。
鹿鳴という名は、宴会で賓客をもてなす『詩経』小雅「呦呦鹿鳴、食野之苹」(呦呦と鹿は鳴き、野の苹〈よもぎ〉を食う)を典拠としている。
日本が「文化的な」国であることを欧米に示し、不平等条約改正につなげようという布石の一環であったが、国内から批判の声は多く、「形ばかり整えて何になるか」とは当時から言われていた。
国外からの評価も芳しいものではなく、「洋装をしてダンスを踊るサル」という屈辱的な(しかし的確な)風刺画がビゴーによって描かれている他、鹿鳴館を訪れた外交官が「豪奢ではあるがカジノを思わせる軽薄な内装」、「無理にドレスを着てダンスを覚えたのが見え見えの女性」などと書き残している。
明治維新後、まだまだ西欧との付き合いが手探りであった時代の局所的な文化の華として見られている。