概要
インドの独立運動家であるスバス・チャンドラ・ボースが、協力を求めた大日本帝国の全面的な支援の下、イギリス領インド帝国としてイギリスの植民地支配下にあったインドの独立をめざし、自身を指導者として当時日本の統治下であった、東南アジアのシンガポールにおいて樹立させた戦闘的組織である。
ヒンディー語表記は「आर्ज़ी हुक़ूमत-ए-आज़ाद हिन्द」。
誕生経緯
ボース日本へ
日本軍のマレー沖海戦における大勝利を知ったスバス・チャンドラ・ボースはインド独立運動の協力を求めていたドイツが良い反応を返してくなかったため、日本行きを希望して大使館と接触するようになった。
ボースは東條英機首相と会見し、インドの独立運動の支援を要請した。かねてより東條はその話を外相から聞いていたがボースをあまり評価しておらず、もともとインド方面における構想を全く持っていなかったこともあってボース側の会見申し入れを口実を設けて拒絶していた。しかしはボースの人柄に魅せられた東條は一ヶ月後の再会談を申し入れた。
再会談でボースと東條は、日本とインドが直面している問題に関する意見を一致させ、ボースの要請を確約してその後食事会にボースを招待し、東條はボースの影響でインドに対する考え方を新たにした。
またボースの東亜解放思想を自らが提唱する大東亜共栄圏成立に無くてはならないものだと考え、ボースに全面的に協力することを約束した。
こうして東條首相の確証を得たボースは、本格的にインド独立に向けて始動する。
仮政府樹立
しかしながら日本は本国に領土を持っていない仮政府を亡命政府と認めた場合、連合国側の自由フランスや大韓民国臨時政府に対しても理論的承認を与えることになると危惧したため、事実上の政府として扱いつつも国家承認は行わないという態度をとった。
これに対し、チャンドラ・ボースは日本が態度を明確化しないと独立運動に悪影響を与えると働きかけたため、仮政府樹立は承認されたが、あくまで「仮政府という戦闘組織」という定義での扱いであって国家承認は正当政府樹立まで行わない方針を堅持した。
しかし第三国の承認は妨げないとしていたため、他の枢軸国から国家承認をとりつけることには成功したものの、それらの国とは外交使節が交換されず、日本から派遣された公使は国家承認していないという建前のためか日本政府の信任状を持っていないというありさまで(亡命政府ならよくあることだが)明らかにないがしろにされていた。
解体
1945年8月15日の日本のポツダム宣言受諾表明と、イギリスをはじめとする連合国に対する降伏、その直後の8月18日の台湾でのチャンドラ・ボースの航空事故死により自然解体した。
しかし戦後に仮政府の軍隊に所属していた幹部三名がイギリス国王に対する反逆罪で裁判にかけられ、インド独立のために戦った兵士を侮辱されたインド国民が激発。のちの独立運動に大きな影響を与えた。