応仁の乱のころ岩倉織田氏によって築かれたのが始まり。
後に清洲織田家によって本格的な城として建造される。
現天守の下二階部分はこの頃建築されたとされる。
その後池田氏や織田勝長が城主となる。
小牧長久手の戦いでは最重要拠点として争いが繰り広げられた。
豊臣時代に現在の形の城郭として改修される。
関ヶ原の戦いの際には石川氏が籠城するも、家臣が次々と裏切り最終的には石川氏も城を捨てた。
江戸時代には尾張藩の付家老が代々入城することとなる。
平岩氏の後、成瀬氏が9代に渡って城主を務めた。
尚、江戸時代の犬山城主には「尾張徳川家」を密かに監視するという目的があったとされる。
中国の長江流域に築かれた白帝城(を詠った李白の詩)から、同じく木曽川を背に築かれたことから別名「白帝城」とも呼ばれる。
日本最古の天守、ともされているが正確には天守の下二階部分が最古であり最上階は江戸時代に増築されたものである。
さらに下二階部分だけだったころは「天守」では無かったとされる。
日本100名城に認定されている。
2017年には落雷で鯱の片方を損傷している。