宮城県出身のサッカー選手。
ポジションはDF
来歴
プロ入り前
サッカー強豪校の東北高等学校に一般受験で進学で入り、頭角を現す。
当初はプロの誘いがなく、地元のJFL・ソニー仙台に内定していたがコンサドーレ札幌に練習参加した際、当時の岡田武史監督の注目を受け、契約する。
コンサドーレ札幌で
加入初年度の2001年から先発出場の機会を得たばかりか、2001 FIFAワールドユース選手権に出場するU-20日本代表(怪我で出場は逃した)や、翌年のU-19日本代表に招集される。
AFCユース選手権・カタール大会にキャプテンとして出場、準優勝。
翌年FIFAワールドユース選手権・UAE大会に出場。
一方で札幌では2002年に柱谷哲二新監督によりレギュラーとして起用されたがチームは苦戦を強いられ、自身もシーズン途中での監督交代や代表招集中にリーグ最下位でのJ2降格も味わった。
FC東京で
2004年に出場機会を求めてJ1のFC東京に完全移籍。1月からU-23日本代表に飛び級で招集されアテネオリンピック最終予選にただ一人6試合フル出場、8月の本大会にも出場した。
同年のヤマザキナビスコカップで初タイトル獲得。
2005年7月、東アジアサッカー選手権においてジーコ監督率いる日本代表に初選出、中国戦で国際Aマッチ初出場。
2011年、主将としてJ2最少失点となる堅守を築き、1年でのJ1復帰を達成。
ガンバ大阪で
2012年、ガンバ大阪へ完全移籍。この年ブラジルワールドカップ予選では、日本代表のワールドカップ出場に貢献するものの、チームは不振で自身は3度目のJ2陥落を経験する。
翌年、日本代表との並行日程のためリーグ戦の約4分の1ほどを欠場したが、センターバックだけでなくボランチとしても安定したプレーでG大阪のJ2優勝と1年でのJ1昇格に貢献した。
エピソード
2010年、FIFAワールドカップからの帰国会見時に田中マルクス闘莉王のモノマネを披露した。