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尾崎行雄の編集履歴

2018-02-12 22:36:27 バージョン

尾崎行雄

おざきゆきお

尾崎行雄は1.日本の政治家 2.日本の元プロ野球選手。

政治家

(1858年 - 1954年)

相模国津久井県又野村(現・神奈川県相模原市緑区又野)生まれ。

日本の議会政治の黎明期から戦後に至るまで衆議院議員を務め、当選回数・議員勤続年数・最高齢議員記録と複数の日本記録を有することから「憲政の神様」「議会政治の父」と呼ばれる。

最初は海軍省、報知新聞(現在はスポーツ紙「スポーツ報知」)記者を経て明治23年(1890年)の第1回衆議院議員総選挙で三重県選挙区より出馬し当選、以後63年間に及ぶ連続25回当選という記録をつくる(これは世界記録でもある)。

昭和28年(1953年)のバカヤロー解散による総選挙(第26回衆議院議員総選挙)で落選。これを期に政界引退を表明し、衆議院から名誉議員の称号を贈られた。94歳まで衆議院議員を務めた。

昭和29年(1954年)10月6日、直腸ガンによる栄養障害と老衰のため95歳にて死去。


野球選手

尾崎行雄

(1944年 - 2013年)

大阪府泉大津市出身。上記の政治家にあやかって名を付けられた。

浪商高校(現・大阪体育大学浪商高)2年時に1961年の第43回全国高等学校野球選手権大会で優勝投手となり、怪童と呼ばれた。

同年11月に高校を中退、東映フライヤーズへの入団を表明。

1年目の1962年には初登板で勝利投手になるなど20勝9敗、防御率2.42の成績でリーグ初優勝に貢献。

同年はオールスターゲーム出場選出・新人王獲得もする。

1964年から1966年まで3年連続で20勝を記録し、1965年には27勝を挙げて最多勝を獲得したが指にマメの出来る体質に苦しみ、また酷使の影響もあって肩を痛めて1968年以降は勝星から遠ざかる。

1972年6月に同季初先発、7回を投げ5年ぶりに勝利投手となる。同年は3勝を記録するも翌1973年には登板機会が減少、同年オフに29歳で現役を引退。通算107勝83敗。

引退後はレストランを経営した後、スポーツ関係の会社に勤務。

2013年6月13日に肺がんのため死去。68歳没。

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