魏石鬼八面大王とは、長野県安曇野地域の伝承に登場する鬼である。八面鬼士大王、八面大王、魏石鬼、義死鬼とも。
元は田村守宮によって討伐された盗賊団であるが、後世に坂上田村麻呂によって討伐された鬼として広まった。
概要
『仁科濫觴記』(にしならんしょうき)によると、宝亀年間に安曇野の豪族である仁科氏の家臣田村守宮を大将とする仁科軍によって、八面鬼士大王と称する8人を首領とする鼠 (ねずみ)という人々を悩ませた盗賊団が討伐されたという。
現在、一般的に知られている八面大王の伝承は『仁科濫觴記』が底本であると推測される『信府統記』(しんぷとうき)に基づく坂上田村麻呂により討伐された話である。
中房山という所に棲む魏石鬼八面大王を称する鬼が人々を悩ませた。八面大王の討伐を命じられた田村利仁将軍は大同元年に兵を率いて八面大王をうち破った。
近年の評価
近年は坂上田村麻呂が蝦夷討伏の道中に立ち寄った安曇野の人々に食料など貢がせ、それを見かねた八面大王が立ち上がったとして八面大王は英雄視されている。
また、大和朝廷にまつろわぬ民として虐げられた大王であるなど八面大王=善、坂上田村麻呂=悪とする形で名誉が復権されている。
しかしこれには異論もある。
『仁科濫觴記』では田村守宮が八面大王を討伐したとされるが、『信府統記』では田村利仁将軍が討伐したと変化している。これは御伽草子『田村草子』『鈴鹿草子』などで語られる伝説の田村利仁将軍が、本来討伐した田村守宮と混同されて後世に語り継がれたためではないかとされる。
討伐者が坂上田村麻呂へ変化したことに併せて、八面大王が討伐された時代も宝亀年間から大同元年に変化している。ただし史実において田村麻呂の出征は延暦20年が最後である。徳政相論により第4次蝦夷討伏と平安京造営が中止されたため、『信府統記』にある大同元年に田村麻呂が出征したという事実はない。
これらの事から、田村麻呂による八面大王討伐は史実ではないと考えられている。