C-27
しーふたなな
国際連合の危機感
1950年代、世界は再び二分されていた。
第二次世界大戦を勝利で飾ったアメリカとその同盟国からなる国際連合、そしてソビエトを筆頭とする共産主義国である(インド等どちらにも与しない国々もあった。これらは「第三世界」と呼ばれ、米ソ両方から味方に引き込む政治工作が盛んに行われたが、ここでは省略する)。
双方は戦後統治について、ヤルタ会談で大まかな方針は示し合わせていたのだが、ポツダム宣言の頃にはソビエト(=スターリン)は対ナチ戦争の勝利のせいも相まってか増長してしまい、方針を逸脱した勝手な振る舞いが目立つようになっていた。
戦後もこうした共産主義陣営の拡大は続き、1949年に成立した中華人民共和国はもちろんソビエトと同盟を結び、ラオスも共産主義の影響も強く独立を果たした。1950年には北朝鮮がソビエト支援のもと南進を開始。1953年からはカンボジアでもポル・ポト率いるカンボジア共産党が活動を始めた。こうして、アジアに植民地を持っていた欧米諸国に戦慄が走った。
アメリカは(というよりルーズベルトは)ヒトラーを打ち負かさんばかりに、どうやらタチの悪い相手に塩を送ってしまったようだった。こうしてアメリカ国内では共産主義陣営への不信がたかまり、少しでも関係のありそうな人間を「ソ連のスパイ」と決めつけ、追放する運動が始まった。これは『マッカーシズム』『赤狩り』といわれ、多くの者が公職を追放されることになった(全てが濡れ布だった訳でもなく、実際にアメリカだけが核兵器を独占することに危機感を持った科学者が、密かにソ連と関係を持っていた事例もある)。
このマッカーシズムは1954年、拡大して行き過ぎた活動が目に余り、そもそものきっかけとなったジョセフ・マッカーシー議員を譴責することで終わりを告げた。
NATO基礎軍事要件
それからもソビエト率いる共産主義陣営は拡大を続け、ヨーロッパでも危機感はひとしおであった。とくに1949年にはセミパラチンスクで核実験に成功し、未だ配備はおろか研究も成らないヨーロッパ各国では、猛烈に危機感が高まっていた。
(ソ連への危機感なんてスペイン内乱以来だから「今さらかよ」って気もするが)
何せ当時の世界を二分する超大国のかたわれなので、この戦争で必要になる物資はおそらく第二次世界大戦どころではないだろう。
すぐに軍備を整えなければ!だが、戦争の傷も癒えぬヨーロッパに、これを止める実力など残っていなかった。実際、ナチスを倒すにもアメリカの武器が必要だったのだ。もはやヨーロッパの実力をすべて集めたとしても、破竹の勢いで拡大するソ連を止めることはできそうに無かった。
そこでイギリスやドイツなどのヨーロッパでは、ソ連との次なる戦争に備え、準備を簡単にするためにも軍事規格の統一を図った。これはNBMR(NATO Basic Military Requirement)と呼ばれ、要するに『NATO共同で兵器開発をしよう』という内容であった。
(イギリスもドイツも、アメリカの息が多分にかかっている、という事情もある)
戦術V/STOL輸送機開発計画
NATOにおけるV/STOL輸送機開発計画は、第4回と第22回計画でそれぞれ試行されている。
しかし第4次計画の際にはいずれの計画案もモノにならず、続いて第22回計画で仕切り直しを図った。このなかで完成したものがC-27ことG.222、そしてDo31である。
第4回NBMR
実際に制作までこぎつけたのはフランスのブレゲー941、アメリカのヒラーXC-142であった。
また、別に実用化されていた機としてはカナダのDHC-4も入る。
しかしXC-142は着陸で事故を起こしまくり、
DHC-4は実際に運用もされている安全牌だが、飛行性能はヘリコプター以上・ターボプロップ機未満という中途半端さだった。
マトモに飛べる分、ブレゲー941はまだマシだったほうだが、それで肝心の積載能力はどう頑張っても10tそこそこと、これも中途半端でどこからも採用されなかった。
第22回NBMR
そこで「どうしても」VTOLさせたかった要件を緩め、STOL性能のほうを主眼に置いた計画として再始動する。
BACやホーカーも参加する中、製作までこぎつけたのが、Do31、そしてアレニアG.222である。
しかしDo31はご存知の通りのポンコツ仕様であり、NATOのSTOL輸送機(VTOLはあきらめた)計画の勝者となった。
参考資料:アレニアG.222
NBMR-4 / NBMR-22 V/STOL Tactical Transport(NATO Basic Military Requirement)