国際連合の危機感
1950年代、世界は再び二分された。
第二次世界大戦を勝利で飾ったアメリカとその同盟国からなる国際連合、そしてソビエトを筆頭とする共産主義国である(インド等どちらにも与しない国々もあった。これらは「第三世界」と呼ばれ、米ソ両方から味方に引き込む政治工作が盛んに行われたが、ここでは省略する)。
双方は戦後統治について、ヤルタ会談で大まかな方針は示し合わせていたのだが、ポツダム宣言の頃にはソビエト(=スターリン)は対ナチ戦争の勝利のせいも相まってか増長してしまい、方針を逸脱した勝手な振る舞いが目立つようになっていた。
戦後もこうした共産主義陣営の拡大は続き、1949年に成立した中華人民共和国はもちろんソビエトと同盟を結び、ラオスも共産主義の影響も強く独立を果たした。1950年には北朝鮮がソビエト支援のもと南進を開始。1953年からはカンボジアでもポル・ポト率いるカンボジア共産党が活動を開始。
アメリカは(というよりルーズベルトは)ヒトラーを打ち負かさんばかりに、どうやらタチの悪い相手に塩を送ってしまったようだった。こうしてアメリカ国内では共産主義陣営への不信がたかまり、少しでも関係のありそうな人間を「ソ連のスパイ」と決めつけ、追放する運動が始まった。これは『マッカーシズム』『赤狩り』といわれ、多くの者が公職を追放されることになった(全てが濡れ布だった訳でもなく、実際にアメリカだけが核兵器を独占することに危機感を持った科学者が、密かにソ連と関係を持っていた事例もある)。
このマッカーシズムは1954年、拡大して行き過ぎた活動が目に余り、そもそものきっかけとなったジョセフ・マッカーシー議員を譴責することで終わりを告げた。
「NATO基礎軍事要件」
1950年代、こうして西側世界がハラハラしながら拡大を続けたのが、ソビエト率いる共産主義陣営で、ヨーロッパでも危機感はひとしおであった。とくに1949年にはセミパラチンスクで核実験に成功し、未だ配備はおろか研究も成らないヨーロッパ各国では、猛烈に危機感が高まっていた。
(ソ連への危機感なんてスペイン内乱以来だから「今さらかよ」って気もするが)
何せ当時の世界を二分する超大国のかたわれなので、この戦争で必要になる物資はおそらく第二次世界大戦どころではないだろう。そこでイギリスやドイツなどのヨーロッパでは、ソ連との次なる戦争に備え、準備を簡単にするためにも軍事規格の統一を図った。これはNBMR(NATO Basic Military Requirement)と呼ばれ、要するに『NATO共同で兵器開発をしよう』という内容であった。
戦術V/STOL輸送機開発計画
NATOにおけるVTOL輸送機開発計画は、第4次と第22次計画でそれぞれ試行されている。
しかし第4次計画の際にはいずれの計画案もモノにならず、続いて第22次計画で仕切り直しを図った。このなかで完成したものがC-27ことG.222、そしてDo31である。
参考資料:アレニアG.222
NBMR-4 / NBMR-22 V/STOL Tactical Transport(NATO Basic Military Requirement)