概要
1336年4月8日or9日生~1405年2月18日没
生い立ち
西チャガタイ・ハン国に属していたバルラス部出身のモンゴル貴族アミール・タラガイの子として
サマルカンド南部のホージャ・イルガル村にて生まれる。
若くして西チャガタイ・ハン国の有力者であるカザガンに見出されて部下となり、カザガンの暗殺後は叔父であるハージー・ベクに仕えているがこの頃より軍事的才覚を始めとしてた能力を認められるようになり、叔父の死後に後継者となった。
カザガンの孫であるアミール・フサインと共に東チャガタイ・ハン国と戦い、混乱を極める西チャガタイ・ハン国を支えたがさらに対立したアミール・フサインを打倒してマー・ワラー・アンナフルを統一し1370年にティムール帝国を創始した。
各地への勢力拡大
即位後まもなくは東チャガタイ・ハン国と抗争を繰り広げ、さらに西のホラズム地方にも進出した。1376年には亡命してきたキプチャク・ハン国(ジョチ・ウルス)の一族であるトクタミシュを支援してキプチャク・ハン国を統一させた。
1383年にはホラーサーン地方のクルト朝を滅ぼし、1385年にはベルシアを完全に勢力下に収めた。一方でキプチャク・ハン国を統一したトクタミシュとは完全に対立関係となり、長期に渡り争う事になる。
ティムールの快進撃は以後も止まらず、1398年から99年にかけてはインド遠征を行って北部インドの中心都市であるデリーを占領、次いで西方に遠征を行いエジプトのマムルーク朝の軍を撃破し1402年にはアンカラの戦いでバヤジット1世率いるオスマン・トルコ軍を撃破した。
晩年
晩年のティムールは東方遠征を行いモンゴル高原と明の攻略を目標とし、1404年に自ら率いる遠征軍を出撃させたが程なくして病に倒れて翌年にオトラルにて病死した。
関連人物
- 家族
ジャハーンギール(1356年生?~1376年没)
長男(次男説もある)。
最初に後継者として定められていたが若くして亡くなった。
ウマル・シャイフ(?~1394年没)
次男(長男説もある)。
インド遠征やトクタミシュとの戦いに従事したがイラク北部のクルディスタンで戦死した。
ミーラーン・シャー(1366年生~1408年没)
三男。
ホラーサーンやアゼルバイジャンの総督を務め、父の遠征にも従軍して功績を挙げたが後継の座を狙って反乱を起こし失脚した。
父の死後に再び反乱を起こして弟のシャー・ルフと争うが失脚し、黒羊朝のカラー・ユースフとの戦いで戦死した。
シャー・ルフ(1377年生~1447年没)
四男。
ティムール死後の後継者争いに勝利し、ティムール帝国第3代君主となる。
文化事業に積極的であった。
ピール・ムハンマド(1376年生~1407年没)
孫(ジャハーンギールの次男)。
父の死後は兄であるムハンマド・スルタンがティムールの後継者に定められていたが、1403年に死んだ事で自身が後継者に定められる。しかしティムールの死後に従兄弟のハーリル・スルタンの妨害で首都サマルカンドには入れず争いの末に暗殺された。
ハリール・スルタン(1384年頃生~1411年没)
孫(ミーラーン・シャーの子)。
ティムール晩年の遠征に同行しており、ティムール死後はサマルカンドに戻り後継者に定められていた従兄弟のピール・ムハンマドを妨害し、暗殺に成功して自らがティムールの後継者として帝国の第2代君主となる。
しかし諸侯や民衆らの反発を招き叔父であるシャー・ルフに破れて降伏した。
- 配下等
ソユルガトミシュ(?~1388年没)
ティムールが1370年に擁立した西チャガタイ・ハン国の当主。
実質的にはティムールの配下として活動した。
スルタン・マフムード(?~1402年没)
ソユルガトミシュの子。
父の死後に西チャガタイ・ハン国の当主の地位を継ぐ。
アンカラの戦いではバヤジット1世を捕らえる功績を挙げた。
カラ・ユルク・オスマン(?~1435年没)
白羊朝初代君主。
東部アナトリアの遊牧民の首領で黒羊朝に対抗する為にティムールに従属し、アンカラの戦いにも参加して東部アナトリアにて白羊朝の基礎を築いた。蒼き狼Ⅳではウスマーンという名で登場し最初からティムール帝国の武将として登場する。
ヒズル・ハーン(?~1421年没)
サイイド朝の初代君主。
ティムール配下の武将でインド遠征後に北部インド近辺の総督を務め、ティムールの死後はティムール帝国にに従属しつつも半ば独立した形で北部インドのトゥグルク朝を滅ぼしサイイド朝を開いた。
サイイド・バラカ(?~1404年没)
ティムール帝国のイスラム教のスーフィーの一人。
ティムールは彼を師父として宗教的助言や政治的助言を受けていた。
蒼き狼Ⅳではバラカトの名で武将として登場。
- 宿敵
トゥグルク・ティムール(?~1363年没)
東チャガタイ・ハン国の当主。
分裂していた西チャガタイ・ハン国に進出し、一時はティムールも従ったが後に反乱を起こして勢力を衰退させた。
アーミル・フサイン(?~1370年没)
西チャガタイ・ハン国の有力者でティムールと協力して東チャガタイ・ハン国と戦うが後に対立した末にティムールに敗れて処刑された。
カマルッディーン(?~?)
東チャガタイ・ハン国の有力者でトゥグルク・ティムールの死後にその息子であるイリヤース・ホージャを殺害して自らが東チャガタイ・ハン国を率いる事になり、長くティムールに抵抗した。
トクタミシュ(?~1406年)
キプチャク・ハン国(ジョチ・ウルス)の当主。
ジョチの十三男であるトカ・テムルの子孫で内部争いによりティムールの元へと亡命し、ティムールの支援を受けて1378年にキプチャク・ハン国の当主となる。
しかし後にティムールと対立してティムールの遠征中に帝国に侵攻した事で完全に戦争状態となり長く抗争を繰り広げたが1395年に首都サライを失い当主の地位も失う。晩年のティムールと和解したがティムール死後に部下に殺害された。
バヤジット1世(1360年生~1403年没)
オスマン・トルコ帝国第4代スルタン。
迅速かつ有能な軍事的能力で「雷帝」の異名を持ち帝国の勢力の拡大に成功したが、
1402年にアンカラの戦いに敗れて捕虜となり翌年に死去した。
バルクーク(?~1399年)
エジプトのマムルーク朝のスルタン。
それまでのバフリー・マムルーク朝を打倒しブルジー・マムルーク朝を築いた実力者でティムール帝国の西方進出に警戒した。
カラー・ユースフ(?~1419年)
イラク北部近辺を支配した黒羊朝第3代スルタン。
マムルーク朝やオスマン帝国と手を組みティムールに対抗した。