第十代江戸幕府征夷大将軍。先代将軍、家重の長男。
幼い頃から聡明で知られ、言語不明瞭だった父に変わって、祖父・吉宗の英才教育を受けて育った。
1760年に父の隠居により第10代将軍となる。治世の前半は側用人の田沼意次と老中の松平武元
の助けを借りて政治に励んだ。しかし、1771年に御台所の倫子女王が死んで以降、徐々に政へのやる気をなくす。1779年に嫡子・家基と松平武元が死んだことが家治の政治へモチベーションに止めを指し、以降は田沼を老中に任命し幕政を任せ、次第に自らは趣味に没頭することが多くなった。
1786年8月25日に死亡、享年50。従弟である一橋治済の子供の家斉が後を継いだ。
政治は家臣に任せ、浪費することすらなく趣味に没頭していたため、政治家としての評価は高くない。また、治世の後半はほぼ田沼意次にまかせていたため、家治の評価はその時代での田沼の評価に引っ張られる。
趣味は書・絵画・将棋・鷹狩など。政治とは逆に、書画の分野では評価が高い。
将棋では、指し将棋は評価が分かれるものの、作成した詰将棋は二上達也九段(元将棋連盟会長・羽生善治の師匠)などが絶賛している。
他に、愛妻家でも知られ、田沼意次が側室を薦めたときには、田沼も側室をもつことを条件に側室を選んだ。