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G.91の編集履歴2019/02/02 22:59:38 版
編集者:iks
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G.91

じーきゅういち

1953年のNATO軍事基礎要件第1号「軽量打撃戦闘機計画」に対する、イタリアのフィアット社による回答がこれ。 同じく試作された数種の中でも性能は良かったが、フランス・イギリスなどは自国製戦闘機に拘ったため、採用はイタリア・西ドイツ・ポルトガルに留まった。

ジーナ誕生前史

大戦終結まで

ルーズベルト大統領はソビエトを大いに見誤っていた。

彼は前任者たちと違って国際共産主義運動の本質を見抜けず、ソビエトを国家として承認してしまったからである。

また、世界に共産主義革命が広がり続けていったらどうなるか。

いつかはアメリカでさえ共産主義革命が起こり、現状の民主制を焼き捨てて自分達「支配階級」を放逐するのではないか。

彼はそういった部分には考えが至らず、ただソビエトを公然と支持し続けるのであった。

一方ソビエト(ロシア)は帝国時代から、冬でも流氷に閉ざされない不凍港が悲願の的であり、「偏執狂」とさえ呼ばれたスターリンの万人に対する人間不信と合わさって、このさい領土に取れそうな土地は全て我が物として取り尽くす意図で満ちていた。

このように、アメリカとソビエトは「同じ連合国として在り」ながらも、実態は反全体主義を同じく旗印とするにしてはかけ離れ過ぎていた。第一、全体主義も共産主義も、手段の実態として同様ではないか。今現在対抗せんとする全体主義と、今現在手を組む共産主義と、いったい何が違うというのか。大悪魔ヒトラーを倒すためなら何でもいいのか。黄色い侵略者を倒すためには矛盾など気にしないのか。

こうした齟齬は大戦中すでに片鱗を見せていて、ヤルタ会談ではスターリンの意図を見て取ったチャーチルが調印を拒否する事態にまでなった。しかしルーズベルトは約束した。ドイツの半分から全てをくれてやると。結局ポーランドはソビエトに喰われ、アメリカ・イギリスに味方する者たちは44年のワルシャワ蜂起で見殺しにされた。「大戦争」後に自立したはずだったバルト三国もソビエトになった。

おそらく、ルーズベルトはあれほど敵意を燃やした日本に何を言ったのか、自分で忘れてしまっていたに違いない。ポーランドやリトアニア・ラトビア・エストニアにとっては、ソビエトが侵略者になったのだから。全体主義がそうだったように共産主義もまた「疫病」であり、いつかはアメリカも蝕まれるのは明らかだったにも拘わらず。しかも無邪気なことに、ルーズベルトの周囲はいつしか共産党シンパだらけになっていた。

第二次世界大戦後は、こうして戦勝国のワガママ放題が新たな戦争の火種を作っていた。

時にして1945年。

アメリカが「自由」を口にするにしては肌の色を忘れ、ソビエトが「平等」を口にするには強大すぎる権力者を頂く時代であった。

終結後

世界大戦は(いちおう)連合軍勝利で終結したが、これは全体主義・資本主義・共産主義からなる三つ巴の戦いを、内二つに絞っただけだった。もとより全体主義を倒すためだけに共産主義と手を組んでいたのが資本主義だから、目的が消えてしまえば元の対立関係に収まるのは当然であった。

要するに、元々アメリカとソビエトは不倶戴天の敵だったのだ。

不協和音はすぐに鳴りはじめた。朝鮮半島の統治に関する事項である。

ソビエトはこれ幸いに朝鮮半島の全てを頂くつもりでいたが、トルーマン(ルーズベルトの急死により大統領へ昇任した)はソビエトの伸長を警戒する反共主義者だったため、急遽北半分だけが与えられるに留まる、はずであった。

半島内では、支配者が倒されたときにはよくある事だったが、そのどちらを支持するかで民衆は二派に分かれた。しかもそれは南北政府だけに限らず、他にも様々な意見の対立から民衆間に多数の徒党に分かれて大小の紛争が同時多発し、またインフラを整備していた日本人が一斉に去ったことで洪水や疫病、飢饉にも襲われるようになった。こうしてさらに社会不安は増大し、また統治の方針をめぐって南北政府背後の米ソの対立も激しくなっていった。

1950年、朝鮮戦争勃発。

こうして「連合軍の平和」は、わずか5年足らずの命に終わった。

初めての「戦訓」

こうしてなし崩しに勃発した朝鮮戦争であるが、この戦争は国連軍(=アメリカ陣営)に与えたものは大きかった。

まずは今まで直接経験することの無かった、共産主義陣営の主な戦術に触れたこと。

朝鮮半島では大規模な戦車部隊の投入は難しかった。そこで戦力は歩兵を主体とし、移動や攻撃も国連軍の目を盗んで夜間とした。共産陣営の得意は白ロシアの大平原を戦車で蹂躙するイメージが強かったが、そればかりではない。むしろ膨大な歩兵による面単位の制圧力が本領だといえた。

特に夜の闇に乗じた銃剣突撃日本軍と同様に多用され、また当時は技術的にも夜間の航空支援が出来なかった事から、国連軍はとうとう押し切られて瓦解する事例も出た。この前まで一介の小市民だったような者たちが、夜いきなり銃剣で串刺しにされる危険に直面させられたり、銃剣突撃のない晩でも安眠妨害の空襲があったりした訳だから、早々に神経が参ってしまって厭戦気分に取りつかれてしまうのも無理もなかった。

また二つ目は第二次世界大戦と同様に、戦場上空の航空優勢は常に国連軍の側にあったのに、これが地上軍の優勢に繋がらなかった事である。北朝鮮空軍の活動は概して低調で、MiG-15の脅威こそあったものの、それが発揮されたのは中朝国境沿いの一部地域でしかなかった。

にも拘わらず、空軍はどうして地上軍が優位になるよう活動できなかったのか。

北朝鮮空軍が手強かった訳ではない。ただ必要な時に来られなかったのだ。

この議題は休戦後のNATOでさっそく検討の的にあがった。

NBMR(NATO Basic Military Requirement)第1号

NATO軍事基礎要件。

これはNATO諸国で軍事規格を統一し、整備や補給を行いやすくするために設けられたものだ。

当然、規格を統一するということは新型の装置を作るということであり、要するに兵器の共同開発事業であった。

1953年12月、NATO最高司令部は、空軍が複雑・高価な戦闘機を空港に常駐させたのでは、核戦争勃発時に攻撃され易すぎる上に被害も大きくなると指摘し、臨時飛行場(アウトバーンなど)から発着できて、且つ地上施設も最低限で済む軽量戦闘機の開発を提案した。

要求仕様は以下のとおり。

・離陸滑走距離は1100m以内で、かつ滑走路末端時点で15mの障害物を飛び越えられる。

・草原や道路からでも作戦可能

・最大速度はマッハ0.95

・戦闘行動半径は280kmで、目標上空には10分程度留まるものとする。

・コクピットと燃料タンクには防御装甲を施す。

・固定武装は12.7mm機銃4連装か、20mmか30mm機銃の連装。

この仕様では当然大きなエンジンを使うわけにはいかないが、ちょうどいいことにブリストル・シドレー「オーフュース」があった。当然、このエンジンも開発にはアメリカからの資金が入っている等、NATOにとっては息のかかった品であった。

この提案をうけてフランスやイタリア、アメリカの各メーカーが設計案を持ち寄った。

以下のような設計案は、航空力学の権威セオドア・フォン・カルマン氏率いるAGARD(航空宇宙調査開発諮問機関)にて審査を受けることになった。

・フィアット G.91

・アエルフェール「サジッタリオ2」

・ブレゲー Br.1001「タオン」

ダッソー「エタンダールⅥ」

・シュド・エスト「バルデュール」

ノースロップ N-156

(なお、本計画の影響を受けてイギリスではフォーランド「ナット」が開発されたが、審査には参加せず)

これら審査は1953年3月から18か月をかけて行われ、一次審査の結果は1955年3月30日に発表される。この中でブレゲー案・ダッソー案、そして本機フィアット案を実際に制作し、性能で評価しようということになった。そして実機テストの結果、本機G.91が最も優秀であるということになり、見事NBMR-1の勝者となった。

フィアットG.91は、F-86(とくにD型系統)に良く似た形態をしていたが、それはフィアット社がF-86Kのライセンス生産を行っていたから当然の事で、わが日本でも富士T-1が同様の事情でF-86に通じる形態(と言っても「パッと見で似てる気がする」程度だが)だった。

しかしF-86よりも大幅に軽量なおかげで運動性はよく、非力なエンジンだったとはいえ要求仕様は十分に満たせる性能だった。とくに運動性は空軍の曲技飛行隊でも採用されるほどで、操縦も易しく、当のイタリア人たちは型番のGから「ジーナ(ちゃん)」と呼んで親しんだ。

失敗のジーナ

だが、この機がNATO諸国一般に普及する、という事は無かった。

というのも、同様の戦闘機ではN-156改めF-5の方が性能は良かったからだ。

しかもこちらは(一応は)いっぱしの超音速戦闘機であり、同じく配備するにしても、こちらのほうがよほど「箔」がついた。その上、N-156は最初から海外軍事支援用なのを背景に生産もどんどん進められ、世界中にあれよあれよという間に普及していった。

結果、G.91が普及するより早くN-156は浸透してゆき、顧客を奪ってしまう。

G.91は開発国のイタリア、最初から決めていたドイツ、その中古品を引き取ったポルトガル位にしか採用されず、競争試作の勝者にしてはささやかな成功しか納められなかった。

G.91とは

目的

戦場近くから発進し、地上部隊と連携して航空支援に当たるという開発目的は、山がちで空港を設置しにくかった朝鮮半島での戦訓を元にしたものである。また戦争の危険が増すと空港を離れ、道路や平原に分散配備して活動し続けるという構想は、冬戦争におけるフィンランド空軍にも範をとったものだろう。

各種MiG戦闘機も、比較的短距離の飛行場(こちらも道路・草原などを想定)からの出撃を想定して設計されているが、このG.91はそうした「戦場戦闘機」としての運用に近いものと考えられる。

設計

そのため、G.91は低圧タイヤに頑丈な機体構造を組み合わせるなど、あえて離発着性能に重点を置いている。機首は原型(F-86K)と比べて小さくなったためレーダーは搭載しない(そもそも要求されてもいない)が、対地偵察用のカメラを3台搭載した。

防弾性能は要求仕様どおりで、G.91では胴体中央部までを防弾装甲で囲みこみ、そこへ7つに分割された燃料タンクとコクピットを収めて実現した。とくにコクピットでは左右側面と底面、そして風防ガラス前面が防弾仕様になっていて、高射砲の砲弾片や小銃弾に備えている。射出座席はイギリスのマーチンベーカー社製のもの。

主翼は37度の後退角にダブルスロッテッドフラップと油圧式エルロン、尾翼は人工感覚装置つき昇降舵を備える。垂直尾翼付け根にはドラッグシュート収容部も設置された。

サイズ

機の大きさは長さ10.3m・幅8.56mで、これがF-5なら14.45mと8.13m、MiG-17だと11.3mと9.6mとなり、比較的小柄な両機種よりも更に一回り小さい。空虚重量は3100kgで、F-5が5000kg程、MiG-17でも4200kg程だからこれも軽量に作られている。

エンジン

ブリストル・シドレー「オーフュース」803(出力:22.2kN)を単発式で備える。

F-5ではJ85エンジン(ドライ:15.5kN、アフターバーナー:22.2kN)を2基、MiG-17ではクリモフVK-1(ドライ:26.5kN、アフターバーナー:33.8kN)の単発式となっている。

G.91は出力面での余裕が少ないが、これは上昇力に大きな影響があり、MiG-17では12800ft/Min、F-5に至っては34400ft/Minにも至るが、G.91では6000ft/Minと、あまりよろしくない数字に留まる。また、当然ながら搭載力にも関わってくるが、こちらも良くはない。

武装

固定武装にはアメリカ製の12.7mmブローニングM3機銃を4挺(各300発)か、フランス製30mmリボルバーカノンDEFA(各120発)を2挺備える。

他には各種爆弾やロケット弾、増加燃料タンクなどを機外に搭載できる。このためのハードポイントは主翼に4か所設けられているが、軽量設計の代償に搭載力は合計700kg足らずに留まり、攻撃力は本当に「軽」といったところである。

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