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Q-5の編集履歴

2019-09-16 20:16:48 バージョン

Q-5

きゅーご

50年代末期から中国が開発していた攻撃機(襲撃機)で、原型はMiG-19である。大幅な改設計が施され、特に機首は元の面影が残っていない。今や性能が高いとは言えないが、中国では長らく主力機の一角を占めていた。強撃5や強5とも呼ばれ、輸出仕様にはA-5の型番が与えられる。NATOコードネームは「ファンタン」。

はじめての超音速戦闘機

中ソ対立の裏側で

1956年、ソ連指導者となったフルシチョフは、53年の就任後からスターリン時代の独裁制や権威主義、個人崇拝を反省する「スターリン批判」を展開し、アメリカをはじめとした資本主義陣営との平和共存も視野に入れた、ハト派外交を展開した。


しかし、これはスターリン同様に独裁体制を敷いていた毛沢東には、都合が悪かった。毛沢東もまた独裁制・個人崇拝・権威主義推奨だったからだ。そんなわけで、ここに決定的な意見の相違が明らかになった両国は、同じく『階級のない社会、みなが平等な社会を、つまり共産主義を創ろう』という共産主義国であったにも拘わらず、皮肉にもそれが故に敵対するのであった。


技術的にはまだまだ未熟で、ソ連の手助けを必要としている段階ではあったが、政治的対立がこうも明確になってしまっては援助もクソもない。結局MiG-19およびMiG-21はライセンス生産を許可されたものの、技術指導は途中から全くの尻切れトンボになってしまった。


国産化MiG-19の登場

とはいえ、MiG-19の頃はそこまで酷いことにはなっていなかった。

一応は、当時最新鋭のMiG-19を生産できるようになるまでは、面倒を見てくれていたのだから。何もかも初めて尽くしだった(であろう)中国にとって、本国に送れる事5年で初飛行まで漕ぎつけたのは、何より技術指導の成果には違いなかった。


しかし問題はその後。MiG-21国産化である。

こちらはもう指導員を派遣してくれる事もなく、ただ設計図と完成見本とを送りつけられただけだった。


『まだまだ知りたい事だらけなのに、こんな所で放り出されるなんて!』

当時の技師の失望たるや、察するに余りある。

それでも、開発は続けねばならなかった。当時の中国社会の混乱の渦中にあってさえも。


50~60年代の混乱

話は少々遡る。

1956年、フルシチョフがソ連指導者に収まった頃、中国では何が起こっていたのだろうか。


当時の中国では、毛沢東がますます権力を強めて「毛沢東独裁」という程までになっていた。しかしソ連はスターリンを批判し、これまでの路線を修正しはじめるのを目の当たりにした毛沢東は、今までの自身の在り方や、共産党の未来の在り方に不安を抱いたのか『百花斉放百家争鳴』という、共産党への批判を奨励する運動を始めた。この百花斉放百家争鳴とは、「多彩な文化を開花させ、多様な意見を論争する」という意味である。


この運動は徐々に共産党支配そのものへの批判となり、暴動へも発展しかねない程になったため、57年5月頃からは本当に批判した者たちを「右派」として弾圧するようになった。まさかの掌返しである


「大躍進」の罰と罰と罰

こうして、国内の反体制派の大部分を「炙り出し」「処分」した毛沢東は、続いて『第二次五か年計画』を発動する(1958)。俗に言われる『大躍進』というアレである。この政策の目玉は農業・鉄鋼分野での大増産で、中国共産党では当時「アメリカに追いつけ」をスローガンに発展を続けていたソ連を意識して、「我々は15年でイギリスを追い越す」という一大目標をブチ上げた。

しかし結果はご存知の通り大失敗


まず鉄鋼分野であるが、とにかく生産を高めるため、全国に製鉄設備が作られた。

本来の意味では「鉄鋼の生産量を増やす=鉄鋼製品を使って様々な設備・製品を作り、経済が発展する」という事だったのだが、毛沢東はこれを理解できていなかった。そして指導内容も『質とか関係ないからとにかく鉄を作れ!作りまくれ!』である。おまけにこの「製鉄所」も村の鍛冶屋が作るような簡単なものだったため、全国で使い様のない鉄塊が大発生する事になった


しかも、その原料は何であったか。

昨日まで使ってたクワやスキ、あとはシャベルに鍋に釜といった具合だったため、この後は日々の作業に即悪影響を及ぼした。

森林も失われた。製鉄所の高炉で使う燃料が必要だったのである。

全国の山々はこうして禿山大山脈となり、雨など降ろうものなら即地滑りを起こしては人里を飲み込んだ。


農業分野も、ただ農業指導するだけなら良かったのだが、その上何をトチ狂ったのか

・稲の密植:要するに『同じ面積に2倍植えれば大豊作じゃね?』んなこたぁーない

・農地深耕:要するに『とにかく深くまで耕せば大豊作じゃね?』んなこたぁーない

・作物保護:要するに『米食うスズメが全部死ねば大豊作じゃね?』んなこたぁーない

といった事を全国一律に発布して、おまけに作付・収穫まで全国一律日に指定した。


結果どうなったかというと、これが世紀の大失敗で、気候が全国一律でないのなら作付も収穫も違う日なのは当たり前。それを全国一律に設定したものだから、実が熟さず収穫に適さない地方と、実ったまま腐ってこれも収穫できない地方が一斉に「収穫」に勤む事になった。当然、大凶作である


また、農業指導も農業指導で、同じ面積に2倍植えれば栄養不足で作物は全滅してしまうし、深く耕しすぎると栄養のある表土が無くなってしまう。さらに農民たちが野良仕事そっちのけで駆り立てたおかげで、スズメは確かに居なくなった。しかし今度はスズメが食べていた分の昆虫が大生育してやはり大凶作と、これら毛沢東のアタマから生まれ出でたアイデアは、ことごとく現実世界に否定されてしまった。何せ共産主義者なんてもんは(ry


そして指導過誤・失敗など報告しようものなら、即現場責任者の生命に関わる事態になった(=処刑)ので、毛沢東にはただ「輝かしい大成功」だけが報告され続けた。

それが今なお黒歴史とされ、中国では触れる事すら許されない歴史なのである


こうして、中国は本来広大で肥沃な農地を持っていながらも、餓死者ばかりが溢れかえる事態になった。これには自然災害が一因だともいわれるが、災害なら災害で全国一律にはならず、復旧・再開発も行われ、損害は他の農地で埋め合わせるよう手配するのが当然の成り行きである筈で、自然災害ではここまでの被害にはならない。2000万人とも言われる餓死者の責任は、当然人間によるものである


当時、技師たちが直面した現実というものが、これだった。

なお、この2000万人はその後「15年戦争の犠牲者」とされた模様。しかも20世紀中は日本でも「知識人」を中心として大真面目に信じられていた。


「ファンタン」の誕生

中国では、MiG-19のライセンス生産を開始(1958年)する一方、同時に独自の発展型研究にも乗り出していた。これが後にQ-5として結実するのである。


構成

MiG-19、およびライセンス生産型J-6からは主翼・尾翼が流用され、胴体が新設計になった。

低高度・低速専門の襲撃機にとっては、エアインテイクを胴体左右に移設する意義までは薄いはずだが、実際にはレーダー搭載が予定されており、また同時に戦闘機型も開発されていた名残もあるのではないだろうか。


武装

新設計になった胴体は、4mもの爆弾倉を設けるために全体で3mほど延長された。この爆弾倉は半埋め込み式で、胴体下面の両エンジン間に凹部が作りつけられている。内部は縦に2か所のハードポイントがあり、計1000kgまでの爆弾を搭載可能。中国最初の水爆実験ではこの部分に水爆を搭載したが、その他の使い勝手は悪かったようで、初期に生産された核爆撃機型以降は燃料タンクに置換された。


主翼には左右2か所ずつハードポイントがあり、それぞれ爆弾・ロケット弾で武装できるが、外側はほぼ燃料タンク専用となっている。Q-5Ⅲ(A-5C)では外側にハードポイントを増設して左右3か所になり、サイドワインダー等の短射程AAMを搭載できるようになった。


固定武装には左右主翼付け根に23mm機銃(各100発)を装備。原型機では機首にも機銃があったが、Q-5では撤去されている。


レーダー等の電子機器

当初のQ-5はレーダー等を一切搭載しておらず、せっかく移設したエアインテイクは無意味になってしまった。一応予定はあったのだが、当時の中国はレーダー開発に多分に苦労しており、結局完成はしなかった。のちにレーザー測距装置などが装備されている。



参考資料

Nanchang Q-5 Fantan

Q-5(航空機)

Nanchang Q-5

J-6 (航空機)

Shenyang J-6

MiG-19(航空機)

Mikoyan-Gurevich MiG-19


そうなんだ近代史 -大躍進政策は、毛沢東の夢想による大失政。中国史上最大の飢饉が発生した-

世界史の目 第135話「大躍進と中ソ対立」

百花斉放百家争鳴(wikipedia)

世界史の窓 世界史用語解説 授業と学習のヒント 中ソ対立

中ソ対立(wikipedia)

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