はじめての超音速戦闘機
中ソ対立の裏側で
1956年、ソ連指導者となったフルシチョフは、53年の就任後からスターリン時代の独裁制や権威主義、個人崇拝を反省する「スターリン批判」を展開し、アメリカをはじめとした資本主義陣営との平和共存も視野に入れた、ハト派外交を展開した。
しかし、これはスターリン同様に独裁体制を敷いていた毛沢東には、都合が悪かった。毛沢東もまた独裁制・個人崇拝・権威主義推奨だったからだ。そんなわけで、ここに決定的な意見の相違が明らかになった両国は、同じく『階級のない社会、みなが平等な社会を、つまり共産主義を創ろう』という共産主義国であったにも拘わらず、皮肉にもそれが故に敵対するのであった。
技術的にはまだまだ未熟で、ソ連の手助けを必要としている段階ではあったが、政治的対立がこうも明確になってしまっては援助もクソもない。結局MiG-19およびMiG-21はライセンス生産を許可されたものの、技術指導は途中から全くの尻切れトンボになってしまった。
国産化MiG-19の登場
とはいえ、MiG-19の頃はそこまで酷いことにはなっていなかった。
一応は、当時最新鋭のMiG-19を生産できるようになるまでは、面倒を見てくれていたのだから。何もかも初めて尽くしだった(であろう)中国にとって、本国に送れる事5年で初飛行まで漕ぎつけたのは、何より技術指導の成果には違いなかった。
しかし問題はその後。MiG-21国産化である。
こちらはもう指導員を派遣してくれる事もなく、ただ設計図と完成見本とを送りつけられただけだった。
『まだまだ知りたい事だらけなのに、こんな所で放り出されるなんて!』
当時の技師の失望たるや、察するに余りある。
それでも、開発は続けねばならなかった。当時の中国社会の混乱の渦中にあってさえも。
50~60年代の混乱
話は少々遡る。
1956年、フルシチョフがソ連指導者に収まった頃、中国では何が起こっていたのだろうか。
当時の中国では、毛沢東がますます権力を強めて「毛沢東独裁」という程までになっていた。しかしソ連はスターリンを批判し、これまでの路線を修正しはじめるのを目の当たりにした毛沢東は、今までの自身の在り方や、共産党の未来の在り方に不安を抱いたのか『百花斉放百家争鳴』という、共産党への批判を奨励する運動を始めた。この百花斉放百家争鳴とは、「多彩な文化を開花させ、多様な意見を論争する」という意味である。
この運動は徐々に共産党支配そのものへの批判となり、暴動へも発展しかねない程になったため、57年5月頃からは本当に批判した者たちを「右派」として弾圧するようになった。まさかの掌返しである。
「大躍進」の罰と罰と罰
こうして、国内の反体制派の大部分を「炙り出し」「処分」した毛沢東は、続いて『第二次五か年計画』を発動する(1958)。俗に言われる『大躍進』というアレである。この政策の目玉は農業・鉄鋼分野での大増産で、中国共産党では当時「アメリカに追いつけ」をスローガンに発展を続けていたソ連を意識して、「我々は15年でイギリスを追い越す」という一大目標をブチ上げた。
しかし結果はご存知の通り大失敗。
まず鉄鋼分野であるが、とにかく生産を高めるため、全国に製鉄設備が作られた。
本来の意味では「鉄鋼の生産量を増やす=鉄鋼製品を使って様々な設備・製品を作り、経済が発展する」という事だったのだが、毛沢東はこれを理解できていなかった。そして指導内容も『質とか関係ないからとにかく鉄を作れ!作りまくれ!』である。おまけにこの「製鉄所」も村の鍛冶屋が作るような簡単なものだったため、全国で使い様のない鉄塊が大発生する事になった。
しかも、その原料は何であったか。
昨日まで使ってたクワやスキ、あとはシャベルに鍋に釜といった具合だったため、この後は日々の作業に即悪影響を及ぼした。
森林も失われた。製鉄所の高炉で使う燃料が必要だったのである。
全国の山々はこうして禿山大山脈となり、雨など降ろうものなら即地滑りを起こしては人里を飲み込んだ。
農業指導も、ただ農業指導するだけなら良かったのだが、その上何をトチ狂ったのか
・稲の密植:要するに『同じ面積に2倍植えれば大豊作じゃね?』んなこたぁーない。
・農地深耕:要するに『とにかく深くまで耕せば大豊作じゃね?』んなこたぁーない。
・作物保護:要するに『米食うスズメが全部死ねば大豊作じゃね?』んなこたぁーない。
といった事を全国一律に発布して、おまけに作付・収穫まで全国一律日に指定した。
結果どうなったかというと、これが世紀の大失敗で、気候が全国一律でないのなら作付も収穫も違う日なのは当たり前。それを全国一律に設定したものだから、実が熟さず収穫に適さない地方と、実ったまま腐ってこれも収穫できない地方が一斉に「収穫」に勤む事になった。当然、大凶作である。
同じ面積に2倍植えれば栄養不足で作物は全滅してしまうし、深く耕しすぎると栄養のある表土が無くなってしまう。さらに農民たちが野良仕事そっちのけで駆り立てたおかげで、スズメは確かに居なくなった。しかし今度はスズメが食べていた分の昆虫が大生育してやはり大凶作と、これら毛沢東のアタマから生まれ出でたアイデアは、ことごとく現実世界に否定されてしまった。何せ共産主義者なんてもんは(ry
そして指導過誤・失敗など報告しようものなら、即現場責任者の生命に関わる事態になった(=処刑)ので、毛沢東にはただ「輝かしい大成功」だけが報告され続けた。
それが今なお黒歴史とされ、中国では触れる事すら許されない歴史なのである。
こうして、中国は本来広大で肥沃な農地を持っていながらも、餓死者ばかりが溢れかえる事態になった。これには自然災害が一因だともいわれるが、災害なら災害で全国一律にはならず、復旧・再開発も行われ、損害は他の農地で埋め合わせるよう手配するのが当然の成り行きである筈で、自然災害ではここまでの被害にはならない。2000万人とも言われる餓死者の責任は、当然人間によるものである。
当時、技師たちが直面した現実というものが、これだった。
なお、この2000万人はその後「十五年戦争の犠牲者」とされた模様。しかも20世紀中は日本でも「知識人」を中心として大真面目に信じられていた。
「ファンタン」の誕生
中国では、MiG-19のライセンス生産を開始(1958年)する一方、同時に独自の発展型研究にも乗り出していた。これが後にQ-5として結実するのである。
構成
MiG-19、およびライセンス生産型J-6からは主翼・尾翼が流用され、胴体が新設計になった。
低高度・低速専門の襲撃機にとっては、エアインテイクを胴体左右に移設する意義までは薄いはずだが、実際にはレーダー搭載が予定されており、また同時に戦闘機型も開発されていた名残もあるのではないだろうか。
エンジンはJ-6同様にWP-6ターボジェットエンジンを2基収め、出力はドライ:25.5kN(2600kg)、AB時:31.87kN(3250kg)を発揮する。燃料はすべて胴体内燃料タンクに収められ、主翼には設置していない。これはMiG-19、ひいては50年代ソ連で一般的だった設計を引き継いでいる。
武装
新設計になった胴体は、4mもの爆弾倉を設けるために全体で3mほど延長された。この爆弾倉は半埋め込み式で、胴体下面の両エンジン間に凹部が作りつけられている。内部は縦に2か所のハードポイントがあり、計1000kg(おそらく各500kgずつ)までの爆弾を搭載可能。
中国最初の水爆実験ではこの部分に水爆を搭載したが、その他の使い勝手は悪かったようで、初期に生産された核爆撃機型を除いては燃料タンクに置換された。
主翼には左右2か所ずつハードポイントがあり、それぞれ爆弾・ロケット弾で武装できるが、外側はほぼ燃料タンク専用となっている。のちのQ-5Ⅰでは更に外側のハードポイントを増設して左右3か所になり、ここにPL-2、PL-5、パキスタンに輸出されたA-5Cではサイドワインダー等の短射程AAMを搭載できるようになった。
固定武装には左右主翼付け根に23mm機銃(各100発)を装備。原型機では機首にも機銃があったが、Q-5では撤去されている。また、海軍航空隊向けに魚雷を装備した雷撃機型も試作されたが、採用には至らなかった。
レーダー等の電子機器
当初のQ-5はレーダー等を一切搭載しておらず、せっかく移設したエアインテイクは無意味になってしまった。一応予定はあったのだが、当時の中国はレーダー開発について多分に苦労しており、結局完成はしなかった。のちにレーザー測距装置などが装備されている。
主な派生型
Q-5
原型機。主に飛行試験用で武装ナシ。
Q-5A
胴体下の凹部を利用した核攻撃機。
しかし米ソともにそうだったが、途中で中国も「小型の攻撃機に核兵器は相性が悪い」という事に気づいたのか、少数生産に終わった。
Q-5B
1965年から開発された、海軍航空隊向きの雷撃機型。
おそらく主翼外側の増槽用ハードポイントに、Yu-2魚雷(ソ連製56-45型魚雷のコピー品)を2本搭載する。
外観上は機首レドームが丸く、通常より更に下向きになったものになり、魚雷の重量増加に備えて翼面積を広げて車輪を強化し、エンジンもWP-6A(AB時:36.8kN)に換装した。燃費が悪くなった分は、胴体下部の凹部を燃料タンクに替えて補う。
試作機は1970年9月29日に初飛行するものの、搭載するはずだった新型レーダー・航法装置などの開発に手間取り、そのまま足踏みする内に航空魚雷は時代遅れを通り越してしまった。
(実際、最後の魚雷攻撃は朝鮮戦争中で、しかも艦船相手ですらない)
また空母を撃沈せしめる為には、Yu-2魚雷にして8本の直撃が必要と計算されたが、このためには空中パトロール機に撃墜される可能性・各種防空兵器による損害を加味した結果、投下には29機が突破する必要があった。これだけの数を一度に出撃させるのは、いくら中国といえど無理だった。艦隊防空設備が整った結果、マレー沖海戦の栄光を中国が再現することは叶わなくなってしまったのだった。
しかももともと航続距離が長くない上、増槽を搭載できなくなった雷撃機に、一体何ができるだろうか。基地から遠くまで出かけられない雷撃機に、果たして意味はあったのか、という話である。結局海軍には79年までに6機しか引き渡されず、計画は中止された。
Q-5BⅡ
70年代後半から先述のQ-5Bを引き継ぎ、今度は主武装を対艦ミサイルとしたもの。
YJ-81はAM-38「エグゾセ」を参考にした(飛行プログラム等はコピーとするソースも)とされており、Q-5BⅡではこれも2基搭載する。
ご多分に漏れず、このミサイルも実用化までに大層な時間が掛かっており(YJ-81の実戦配備は80年代末)、それまでに海軍はQ-5BⅡに見切りをつけてしまった。大人しくミサイル艇を用意したのだった。
Q-5Ⅰ
1977年開発。Q-5Aの航続距離の悪さを何とかするため、機体下部の爆弾倉を埋めて燃料タンクに替えたもの。これで大幅に実用性が高まり、後の発展型の雛型になった。胴体下部の爆弾外付け用ハードポイント(前後左右4か所)や、外翼部の短射程AAM専用パイロンもこの型から追加された模様。
燃料搭載量は70%増になったといわれ、エンジンもJ-6Ⅲ用に開発されたWP-6Ⅲへ換装された。出力は29.4kN(ドライ)、36.8kN(AB時)へと向上し、上昇力・最高速度はともに向上。1979年に初飛行を遂げ、80年代における中国の襲撃機勢力の主力となった。
Q-5ⅠA
80年代半ばにQ-5Aを近代化したもので、初めてRWR(レーダー警戒受信機)を装備して火器管制装置などを更新。
Q-5Ⅱ
Q-5ⅠAのレーダー警戒受信機を新型とし、全方位からの照準レーダー波受信を可能にしたもの。航法システムも更新されたといわれる。
Q-5Ⅲ
パキスタン輸出用のA-5C原型機。
1981年に発注を受け、82年に初飛行。
A-5C
パキスタン向けQ-5の生産機。1983年から引き渡しが始まった。
Mk.80系爆弾やサイドワインダー、マトラR550「マジック」など、アメリカ・フランスの兵器に対応しており、射出座席はマーチンベーカー製になるなど多くが変更された。
同様の機はバングラデシュ・ミャンマー・スーダンにも輸出されている。
Q-5M
Q-5Ⅳとも。
1986年、イタリアのアエリタリア(現アレニア)との共同事業により、AMXの電子機器をQ-5に適用したもの。というか、もはや『Q-5の皮を被ったAMX』という方が正しそうである。順当に考えれば各種精密誘導兵器にも対応できたはずだが、当時の中国に相応の兵器が無かったのか、対応していなかったようである。
試作機はQ-5ⅠAから改造され、87年8月39日に初飛行。87年のパリ航空ショー、88年のファーンボロ航空ショーで公開されるが、事業は天安門事件の余波で中止されている。のちのQ-5Dに成果は応用された。
Q-5K
Q-5Ⅱをトムソン(フランス)の技術で更新したもの。
機首にフランス製電子機器を収めるが、これも天安門事件で中止。
Q-5D
1996年の台湾海峡危機で導入された暫定的近代化型。
電子機器を更新し、GPSなどにも対応。
本をただせば、旧式化著しいQ-5を更新すべくJH-7を開発していたが、これが中々完成しないために導入された。特にQ-5Ⅰ・Q-5ⅠA(初期導入機)の入れ替えに採用されたといわれ、生産数は比較的少数だという。
Q-5E
型番からして90年代後期に開発された精密誘導兵器対応型。
Q-5は長年、精密誘導兵器に対応してこなかったが、このたび射撃統制機器を更新し、国産のレーザー誘導爆弾に対応した。が、搭載力が低いのでレーザー照準装置までは搭載できず、Q-5Eは爆弾搭載専用機となった。
どうしてもQ-5Fと2機一組にして使わなければならないのが欠点で、使い勝手が悪いと思われたらしく不採用。
Q-5F
先のQ-5Eと組になるレーザー照準装置装備型。
胴体下部にレーザー照準装置を外付けし、Q-5Eを支援する。
Q-5Eともども不採用。
Q-5G
Q-5Eでも、とくにコンフォーマルタンク対応としたものは、こちらの型番で呼ばれる事があるようだ。ただでさえ少ない搭載力を喰う燃料タンクを増設した結果、果たして実用的な武装が可能だったかというと疑問が残る。
Q-5J
複座練習機型Q-5。
21世紀に入り、旧式化したQ-5を練習機として売り込もうとしたもの。主にJJ-6(J-6練習機型)の更新用。2012年、1968年から続いてきたQ-5の最終号機が空軍に引き渡されたが、それがこのQ-5Jだといわれる。
Q-5は今や全機が退役しており、Q-5Jも例外ではなかった。
というか21世紀にもなってターボファンエンジンじゃないってもう(ry
「ファンタン」の最後に
50年代の戦闘爆撃機としてのファンタン
Q-5の計画時点である。この時点から見れば、実はQ-5も中々優秀なところがある。
それは低空・高速侵入・核攻撃を敢行する攻撃機としては忠実な部分である。
Q-5は原型に比べれば重量化しているものの、依然MiG-19譲りの高出力である。低空での高速飛行により、警戒網・防空網が反応する前にこれを突破し、目標への迅速な核攻撃を実行できる。そういった役割では、Q-5はSu-7B/BMとよく似ているところがある。ただし、WP-6は2基合わせてもAL-7Fの1基に及ばないため、スプリントではSu-7には及ばないだろう。
インドに輸出されたSu-7BMKでは、メーカーが設定した低空での最高速度を超えて音速を超えた事例がいくつもあるといわれる。これはAL-7の大出力あっての力技だろうから、出力に劣るQ-5では無理だろう。しかし、当時ルックダウン・シュートダウン可能なレーダーFCSは無く、探知は後年より更に困難だったから、Q-5は低空侵入・高速侵入・核攻撃には向いている機だと言えるだろう。
実際の爆撃の際は、目標手前から急上昇しながら爆弾を切り離し、まるで爆弾を山なりに投げるように投下する。これは「トス爆撃」と呼ばれ、低空爆撃における技術の一つである。
70年代の攻撃機としてのファンタン
70年代はQ-5の生産が始まり、配備される頃である。
しかしこの頃になると、核攻撃は航空機よりもICBMといった阻止不可能な手段に任されるようになっていた。Q-5に良い点を見出すとすれば高速性能だが、既に高速性能よりも搭載力や精密攻撃能力に重点が移っていた。例えばA-7やA-10、またはSu-25といった機である。Q-5と同じく、核攻撃に重点を置いた機にはA-5があったが、この末路は当該項目に書いたとおり。
そして短距離核攻撃に重点を置かれたQ-5は、配備してさっそく使い道に困るようになった。Q-5の搭載力は2t程度に過ぎず、しかも増槽を搭載すると内3割程度が削られてしまうのだ。A-5Cの写真の中には胴体にMk.82を4個、57mmロケットポッド、マトラR550に加えて増槽を搭載したものがあるが、おそらくあれが精一杯である。しかも空中給油には対応しておらず、長距離進出の面では不足とするところが大きい。時代遅れの兆しが見えていた。
しかしホーカー・ハンターでもそうだったように、空戦より地上軍への阻止を目的とした任務には十分で、1回の攻撃力よりも1日あたりの出撃回数で補えば、実用には留まるだろう。合格ギリギリの線というところだが。
21世紀の攻撃機としてのファンタン
未だ空中給油にも対応しておらず、海外の顧客へのセールスポイントには乏しい。精密誘導兵器への対応も不完全で、しかも単機での運用もできない。その上ターボジェットエンジンという燃費も出力も悪いエンジンでは、買い手を探すにしても一苦労だろう。
しかもこのエンジンは出力や、何より耐久性に劣っており、80年代に主力として導入したパキスタンでは、維持に大いに苦心することとなった。そういうわけで、Q-5は21世紀に至って完全に時代遅れとなり、中国でも既に運用されていない通りである。
時代に乗り遅れたもの
航続距離が短く、搭載力よりも速度に重点を持ち、比較的近距離での航空支援を行うところはIl-2のような襲撃機に似た部分を感じさせる。また、『胴体に核爆弾を1発だけ搭載して、超音速にて敵防空網を突破し、迅速に核攻撃を行う』というコンセプトは、1950年代に米ソで流行した戦闘爆撃機のようである。
このQ-5も大まかにそのような定型に沿ってはいるが、米ソとは大きな違いがある。
それは『Q-5は70年代の戦闘爆撃機』という点で、つまり20年遅れで登場した核攻撃機なのである。
Q-5の開発が始まった58年には、例えばアメリカではF-105の運用が始まり、ソ連でもSu-7Bといった戦闘爆撃機の開発が進んでいた頃だった。中国も当然それらの進捗を横目で見ながら開発に入ったと思われるのだが、肝心の開発能力は足りていなかった。その上国内の政治的混乱(大躍進)にも足を引っ張られ、当時は日進月歩で進んでいた航空技術開発に、中国は完全に出遅れてしまうことになった。
しかも政府は、核兵器にばかり注力して通常戦力を顧みなかった。
思い返してみれば、中国は既存の兵器の改良(=手直し)は多く行ったが、新規開発には米ソほど盛んに取り組もうとはしていなかった。開発作業は大概の場合、技術が無くて実用化に至らない場合が多かった。
開発したくても、開発能力が低かったのである。結局開発といえば、世代遅れの旧式機をアレコレといじくりまわすだけになった。Q-5が44年も生産され続ける事態になったのは、ひとえに開発能力の無さの表れだったのではないだろうか(別にQ-5に限った事でもないが)。
21世紀に入り、中国はロシアからのSu-27系列機や、また同様の国産機を導入しているが、こうした旧式機も生産され続けていたという事実は、こうした世界標準と中国とのアンバランスさが表れているところだろう。例えば、空母を建造しても艦載機が無いというようなあたり、完全に政治的要求と開発力とが釣り合っていないが故に起きた事態であるように思える。
おそらく空母や(最近進歩が著しいといわれる)ドローン技術については、冷戦終結以降に導入したロシア、90年代後半から接近したイスラエル技術による恩恵が大きいと考えられる。これだけ出来れば戦闘機開発位は簡単にできそうだ、とも思われるかもしれないが、2019年時点で実戦化に漕ぎつけた独自開発機はJ-10にJ-20くらいのものである(J-10ではイスラエルから開発主査を招いたとの噂もある)。
これは恐らく個々の部品については遅れているとまではいえないが、中国には戦闘機開発について、主導できる人物が居ないせいではないだろうか。そうでなければ、わざわざ40年前の機を改良してまで使おうとするだろうか。
Q-5の発展史は、実は中国の知られたくない部分が表れていたのかもしれない。
参考資料
日本周辺国の軍事兵器 Q-5攻撃機(強撃5/A-5/ファンタン)
そうなんだ近代史 -大躍進政策は、毛沢東の夢想による大失政。中国史上最大の飢饉が発生した-
関連項目
JH-7:後継のはずだが生産時期は並行しており、様々な事情で結局後継になれなかった。