「共産主義」が袂を分かつ時 ~中ソ対立のはじまり~
国民党とアメリカと超音速戦闘機と
1957年、中国が「第二次5か年計画」への支援をソビエトに求めていた頃のこと。
中国とソビエト、二つの思惑によってMiG-21ライセンス生産に伴う技術移転が行われようとしてしいた。
ソビエトではアメリカなど当時の西側世界に向け技術アピールのため、または『一枚岩の共産主義による資本主義への対抗』を行動で示すためだった。いっぽう中国では共産党と国民党との戦争が最盛期の頃で、アメリカが支援し続ける国民党への対抗のため、高性能戦闘機が必要だったのである。
共産党軍は様々な軍閥を取り込んだおかげで陸軍勢力で勝っていたが、整備に費用も手間もかかる空軍は概して弱かった。国民党軍は台湾撤退の頃になると陸軍勢力は殆ど壊滅状態にまで追いやられていたが、空軍に関しては日華事変の頃からアメリカから義勇兵()を受け入れるなど、整備が進んでいた。大陸はすっかり共産党一色となり、台湾に撤退した国民党軍だったが、中台海峡上空では優勢を保ち、台湾上陸を阻止できていたのはそういう訳だった。
国民党軍はその翌年(1958年)から最新鋭のF-100を受領し、中台海峡上空での優勢はますます台湾に傾こうとしていた。公開情報などからその気配を察していた共産党にとって、最新鋭戦闘機のライセンス生産・実戦投入は、そんな傾いたシーソーを中立に、あわよくば自分の有利に傾ける「切り札」にもなり得る、実に魅力的な案であった。
毛沢東の疑心
しかし、毛沢東はその後もソビエトへの塩対応を続行。
原因は「スターリン批判」にはじまる修正主義であった。急速に社会主義国家への転身を図る毛沢東にとって、修正主義のようなソフト路線は、国内をさらに混乱させるだけにしか認識されなかったのだ。
結果、行ったのは国内の更なる思想統制で、多くの右派主義者を追放し、さらに人民公社化を進めたが、これは大躍進に伴う混乱をさらに増大させ、餓死者を増やす事にしかならなかった。
J-7が生まれるまで
「1962戦闘機」
しかし一度はまとまりかけたこの話は、1960年にソビエトが指導技師団を引き揚げると共に中断されてしまう。しかしフルシチョフにとって「身内同士のいがみあい」は望ましいものでもなく、1961年2月に緊張緩和策としてMiG-21ライセンス生産に関する折衝を再開した。
中国空軍はこの話に飛びついた。
翌3月にはさっそく代表団を派遣し、3月30日には機体やエンジン、ミサイル生産に関わる生産技術移転契約に調印した。これによりMiG-21の完全な見本機に参考用エンジン2基、そして15機分のノックダウンキットが中国に引き渡された。さらに別口で12機のMiG-21F-13を購入すると、テスト部隊を編成して評価にあたらせた。こうして装備された輸入機は「1962戦闘機」「62戦闘機」と呼ばれるようになる。
命名:J-7
1961年8月~1962年10月にかけて機体や部品、指導書などが届き、さっそく生産の準備に入った。しかし指導書の一部が揃っておらず、ノックダウンキットの組み立てや完成機を分析して補わなくてはならなかった。