概要
花押(華押)は、現在の署名や実印のようなもの。主に東アジアの漢字文化圏に見られる。自らの名字を崩したものや、動植物を記号化したものが大半である。
歴史
中国の斉(5世紀ごろ)において発生したと考えられており、日本では平安時代中期(10世紀ごろ)から使用され始め、判(はん)、書判(かきはん)などとも呼ばれ、江戸時代まで盛んに用いられた。世界各地においても、花押の類例(イスラム圏でのトゥグラなど)が見られる。
日本の花押の最古例は、10世紀中葉ごろに求められるが、この時期は草名体のものが多い。
11世紀に入ると、実名2字の部分(偏や旁など)を組み合わせて図案化した二合体が生まれた。
また、同時期に、実名のうち1字だけを図案化した一字体も散見されるようになった。
いずれの場合でも、花押が自署の代用であることを踏まえて、実名をもとにして作成されることが原則であった。なお、当初は貴族社会に生まれた花押だったが、11世紀後期ごろから、庶民の文書(田地売券など)にも花押が現れ始めた。当時の庶民の花押の特徴は、実名と花押を併記する点にあった(花押は実名の代用であるから、本来なら花押のみで十分である)。
戦国時代
戦国時代になると、花押の様式が著しく多様化した。
織田信長の「麟」字花押や羽柴秀吉(豊臣秀吉)の「悉」字花押、伊達政宗の鳥(セキレイ)を図案化した花押などの例が見られる。
家督を継いだ子が、父の花押を引き継ぐ例も多くあり、花押が自署という役割だけでなく、特定の地位を象徴する役割も担い始めていたと考えられている。花押を版刻したものを墨で押印する花押型(かおうがた)は、鎌倉期から見られるが、戦国期になって広く使用されるようになり、江戸期にはさらに普及した。この花押型の普及は、花押が印章と同じように用いられ始めたことを示している。これを花押の印章化という。
江戸時代
江戸時代には、花押の使用例が少なくなり、印鑑の使用例が増加していった。
特に百姓層では、江戸中期ごろから花押が見られなくなり、もっぱら印鑑が用いられるようになった。
現代の花押
明治以降、民間人が花押を使うのは稀であるが、日本国政府の閣議における閣僚署名は、明治以降も花押で行うことが慣習となっている。
多くの閣僚は閣議における署名以外では花押を使うことは少ないため、閣僚就任とともに花押を用意しているケースが多い。
現代でも公式文書には、上のような例を除き花押は使えないが、歴史に詳しい者や書家の間,
pixivの絵師達はオリジナルの花押を作り、自身の手紙や作品に描いたりしている。