経歴
1916年8月14日、デンマークのコペンハーゲンにてハインリヒ・アレクサンダー・ルートヴィッヒ・ペーター・プリンツ・ツー・ザイン=ヴィトゲンシュタインは外交官グスタフ・アレクサンダー・プリンツ・ツー・ザイン=ヴィトゲンシュタインの次男として誕生した。
父親が外交官であった関係で、欧州の様々な国で少年時代を過ごし、バイエルン・スイスで学校生活を送った。
ヒトラーユーゲントに入団し、そこで指導者として活躍。国家労働奉仕団を経て1936年4月にバンベルク第17騎兵連隊に入隊。
1937年の夏に空軍に移籍し、1938年6月に中尉となり、第51爆撃航空団を経て、1939年9月1日の第二次世界大戦勃発を第1爆撃航空団のHe111の搭乗員として迎え、航空士、爆撃手として務めた。
1940年~1941年の冬の間にパイロット訓練校に戻り、盲目飛行に必要な免許を取得。
8月、夜間戦闘機部隊への転属が認められ、志願した夜間戦闘機へのポストが11月1日に第2夜間戦闘航空団第3飛行隊第9飛行中隊長への任命という形でかなえられた。
1942年10月7日、22機を撃墜した功に対して騎士鉄十字章を叙勲。
12月1日、大尉として新たに編成された[[第5夜間戦闘航空団第4飛行隊長に就任。
1943年2月に東部戦線、3、4月に再び西部戦線、そしてまた東部戦線へと飛行隊は転戦し、8月1日で飛行隊は第100夜間戦闘航空隊第1飛行隊に再編された。
8月15日、第3夜間戦闘航空団第2飛行隊長に就任。
31日、柏葉騎士十字章を叙勲。
12月31日、第2夜間戦闘航空団司令に少佐として就任。
1944年1月21日、敵爆撃機5機を撃墜するも自らも撃墜され戦死を遂げた。
死後、柏葉剣付騎士鉄十字章が贈られた。
総撃墜数は83機で、ドイツ空軍の夜間戦闘での撃墜数では三位であった。
逸話
●金髪碧眼で端正な顔立ちと183㎝の長身の瘦せ型の体型をしており、ドイツ語の他にも英語、フランス語、ラテン語を話す事が出来た。
その外見のように幼い頃は虚弱体質だったが、それを治すために努力して克服したという。それでも体は丈夫な方では無かったのか1943年の春に二ヶ月ほど胃の病気で入院している。もっともこの事に関しては彼の上官であったヴォルフガング・ファルク大佐は昼間飛行から夜間飛行へと変わった事によるストレスと推測している。
●出自柄と彼のある種の貴族的傲慢さもあってか「王子」と呼ばれたが、本人はそう呼ばれる事を嫌い、祖先であるハインリヒ3世伯爵に通じる「ハインリヒ」と呼ばれる事を好んだという。
●爆撃機から夜間戦闘機への転属を希望したのは、東部戦線で非戦闘員であるロシアの民間人も犠牲にする可能性がある爆撃という行為に益々嫌悪感を感じるようになり、それよりは明確な戦闘員との単一の戦いを望んだ為と母ヴァルブルガ・バロネス・フォン・フリーセンへの手紙には認められていたという。
●降りるのは燃料が無くなった時だけと言われる血気盛んな突進型、そして神経質で完璧主義者であり、搭乗するJu88のレーダー・オペレーターが努力して目標を見つけられない場合でも、苛立って殴りつけたり、期待に応えられなかったレーダー・オペレーターを同乗させる事を拒否するなどの逸話は多く、そして目標を見失ったレーダー・オペレーターにそれから三日間は機内では不動の姿勢をとらせレーダーに触らせなかったという逸話は特に有名であろう。(もっともその後に3機の爆撃機を撃墜した後は彼を許し、一級鉄十字章を彼に授与したという)
そして彼の完璧主義は部下にも用いられ、後から戦場に到着したにも関わらず「Hier Wittgenstein--geh'weg!」(ヴィトゲンシュタイン、此処にあり。そこを退け!)と階級を振りかざして先に居た夜間戦闘機を退かせる等の事もあり一部の部下には特に人気が無かったという。
このような彼を評してフォルク大佐は「王子は生まれながらの指導者であったが、良い指導者ではなく、一匹狼のようなものを好んでいた」と述べている。
●Ju88を好み、第5夜間戦闘航空団第4飛行隊長時代に部隊がBf110に機種変更される事になった折も一回それに搭乗しただけで、Ju88を使い続けた。
●アドルフ・ヒトラー総統に対しては当初は第一次世界大戦後のドイツの混乱を鎮め、共産主義の台頭を防いだとして評価し、それは彼のヒトラーユーゲント、ドイツ空軍での活躍に表れていたが、次第に幻滅を抱き始め、母ヴァルブルガ、外務省の秘書であった女友達のマリー ヴァシルチコフらによれば柏葉騎士鉄十字章をヒトラーに授与された折に彼を射殺しなかった事を後悔しており、1944年1月には次にヒトラーと握手する機会があれば今度はそれを自爆と言う形で実行すると死の数日前に伝えていたという。
●部下や同僚には高慢な貴族的と見られがちであったが、長年彼の乗機でレーダー・オペレーターを務めたヘルベルト・キュムリッツ伍長は、ヴィトゲンシュタインは栄誉を求める撃墜王では無く、ただ自らの国を皆を率いて守る事が貴族である自分の義務と信じて戦う高潔な人物と認識していた。
フォルク大佐も「ヴィトゲンシュタイン王子は貴族ではあったが、国家社会主義者では無かった。彼は500年間ドイツの為に戦った彼の一族と同じように戦ったが、彼は真に成功した紳士だった」と述べている。
●彼の最後は一時間もしないうちに5機のランカスター重爆撃機を撃墜したが、6機目の攻撃に取り掛かった時に爆発が起こり左翼に火災が発生するなか、レーダー・オペレーターのフリードリヒ・オストマイヤー軍曹に「脱出しろ!」と叫ぶものであったという。
オストマイヤー軍曹と機上整備員クルト・マッツライト伍長は脱出したが、ヴィトゲンシュタインは翌朝、墜落したJu88の傍で死体となって発見された。死因は頭蓋骨・顔面骨折であり、パラシュートが開かれてない事から脱出しようとして垂直尾翼に頭部を打ち付けたものと推測された。
ヴィトゲンシュタイン少佐が何に撃墜されたかには様々な説があるが、イギリス第239飛行隊のデスモン・スナイプ特務軍曹の操縦するモスキートの攻撃が有力視されている。彼の証言では攻撃したJu88は航法灯を点滅させるという夜間戦闘機にとっては初歩的なミスを犯していたという。