ピクシブ百科事典は2024年5月28日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴

乾隆帝の編集履歴

2012-01-07 14:14:51 バージョン

乾隆帝

けんりゅうてい

高宗皇帝 清朝の第六代皇帝 即位28歳 治世60年 太上皇帝4年 十全老人

清朝の第六代皇帝 治世60年 太上皇帝4年 十全老人 高宗皇帝

【蒼穹の昴より】

  • 雍正帝の皇位継承は凄惨な結果を生み出したが、乾隆帝の即位は誰もが認めるところだった。幼少から祖父康熙帝に可愛がられ、帝王学を授けられ、才覚にも優れ、尚武の気質も備わっていた。まさに生まれながらの皇帝として雍正帝の跡を継いだ。
  • 乾隆帝はまず宮廷制度を充実させ、たびたび減税を行い、内政の安定を図った。また貨幣経済が発展し、各地の産物も広く交易され、茶や絹織物や陶磁器は遠くヨーロッパまで輸出された。大量の銀が海外から流入し、清朝の財政はかつてないほど豊かになった。
  • その財力を基に、乾隆帝は十度にわたる外征を行った。北はモンゴル遊牧民のジュンガルを討ち、西はウイグルのホージャ一族を滅ぼすと、その地を、新しい領土「新疆」(しんきょう)と名づけて帝国の拡大を図った。また南はベトナム、台湾、雲南、ビルマ、ネパールなどに、それぞれ大遠征を行い、これにより清朝の最大版図(今日の中国の領土)を形成した。
  • 乾隆帝は絵画や文芸、歌舞音曲、建築、工芸にいたるまで、幅広く芸術を愛し、歴史的な名品を作らせて数多くの文化的遺産を後世に遺した。この頃、宮廷文化は爛熟期を向かえ、清がもっとも繁栄を謳歌した時代であった。

余談

  • 性格で言うと乾隆帝はかなり派手好きで、わがままであった、そして芸術も愛した。「お坊ちゃん」のことばがふさわしい。
  • 祖父帝の康熙帝を越えようと思っていたようだ ただ、康熙帝廟号「聖祖」は康熙帝のための廟号で「後」の人々が付けたもので、乾隆帝は自ら「十全の治・十全武功・十全老人」と名乗っているのである。
  • 十全武功も乾隆帝は「全て勝った」と言っているが、西域では酷い苦戦もあり、越南など実質的には負けの遠征もあった。
  • 苗族の反乱や白蓮教徒の反乱などが起こった。さらにこの時期に中国におけるイエズス会の活動を禁止し、完全な鎖国体制に入ったことでのちの欧米の侵攻に対する清政府の抵抗力を奪ってしまった。

関連タグ

乾隆大帝 十全武功 十全老人 雍正帝 康煕帝

問題を報告

0/3000

編集可能な部分に問題がある場合について 記事本文などに問題がある場合、ご自身での調整をお願いいたします。
問題のある行動が繰り返される場合、対象ユーザーのプロフィールページ内の「問題を報告」からご連絡ください。

報告を送信しました

見出し単位で編集できるようになりました