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南部信直の編集履歴

2021/09/29 10:54:21 版

編集者:ふーたん

編集内容:記事に加筆

南部信直の編集履歴

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陸奥の戦国大名で、南部氏二十五代当主。

誕生から宗家との対立まで

1546年、清和源氏流南部氏の分家・石川高信の庶長子として誕生。幼名は亀九郎。田子館に入ったことから田子九郎と称した。

1565年、いとこ(異説有)の南部晴政の養子になるも

その後に晴政に実子・晴継が誕生。これで晴政と信直に亀裂が生じたという。

1570年(1571年説有)、実父の石川高信が津軽為信に攻められて自害。ただし、この頃は信直と晴政の関係が悪化していたので、信直の実家・石川氏排除で利害が一致した晴政と為信が企てた陰謀という見方もある。

1576年に晴政の娘である妻が早世したため、養嗣子の座を辞退し、田子館に引きこもる。

だが晴政が信直に不信感を抱き刺客を差し向けたりしたので北信愛・南長義・八戸政栄らと連携し晴政や九戸政実や実親(こちらも晴政の娘婿)と対立する道を選んだ。

家督相続

晴政派と信直派の全面衝突こそ発生しなかったが、やがて晴政と晴継が相次いで死去すると宗家存続での話し合いが再発。

九戸政実は弟・実親を推したが、北信愛が事前に後継候補の一人・八戸政栄に調略を行った結果、信直が当主になる。

津軽為信との対立、九戸政実との対決

何とか当主になった信直だったが、津軽地方の為信の動きはもはや抑えられず信直に先駆けて為信が豊臣秀吉に謁見したことで為信は大名として正式に認められてしまった。

さらに豊臣政権から南部氏惣領の地位を認められた。しかし、これに憤慨した政実は自ら南部家惣領を自称し縁戚の七戸氏らと共に信直に対して反乱を起こす。

南部家随一の精兵と言われた九戸勢は強く、南長義の孫・南盛義らを討ち取られるなど信直は苦戦する。のち豊臣秀次を大将とする大軍の助力もあり平定。そして政実と実親の兄弟は降伏を許されず騙し討ちにされ、九戸勢は女子供に至るまで皆殺しにされた。

その後、九戸城を福岡城と改名し三戸から本拠地を福岡に移した。

その後

朝鮮出兵の際は海こそ渡らなかったが九州へと赴いた。

葛西・大崎一揆に九戸の乱の後、失った津軽三郡の代わりに新たに和賀・稗貫郡を与えられた。このため所領が南に伸び、三戸や九戸では北に寄り過ぎて本拠地としては不便になった。さらに今度は伊達政宗と接したこともあり、南部は津軽と伊達に挟まれる格好になった。このため信直は嫡子・利直に伊達対策として不来方の地に築城を命じた。ちなみに不来方城は信直死後に完成し、利直は福岡から移転して本拠地とした。また利直は不来方を「森が岡」と改名し、子・重直の代にはさらに「盛岡」と改められ今日に至っている。

最後は福岡城で死去。最後の最後まで為信との和解は成立せず(どちらもする気はさらさらなかったが)、両家はずっと対立し続け江戸時代後期には「相馬大作事件」が発生する。

最後は「大事にはいたっていない。海藻が食べたい」と言ったがその直後に死去したという。

1599年11月22日の事であった。

南部家は利直が継ぎ、江戸時代も領地替えもなく続いたが、幕末の戊辰戦争時に奥羽越列藩同盟の一員として新政府軍と戦っている。

主な家臣

・北信愛

南部氏一族で祖父は南部氏21代目だった。

(父が誕生したのが祖父の死没の翌日だったため母方の北氏に追いやられた経緯がある)

1600年の奥州合戦では水沢城に突如攻めてきた一揆勢を少数ながら撃退する活躍を見せた。

八戸氏の力を恐れた信直・利直はけん制役として重く用いた。なお、外甥で養子の直吉(信景)は信愛死後、利直と不和になり出奔し大坂城に入城して大坂の陣を戦うが捕えられ盛岡まで連行され利直の手で処刑されている。

・南長義

石川高信の弟。名は信義とも。信直の叔父にあたる。北信愛と共に積極的に甥・信直を支持した。

・八戸政栄

八戸氏は元々の南部宗家に当たる家柄。信直と晴政が険悪な関係になった時に信直を匿ったこともある。一時は当主候補になるも北信愛の説得で辞退。

盲目であったが信直の右腕として活躍した。

・石川政信

実弟。高信と同様、為信に攻められ自害したというが異説もあり、果ては実在否定される始末である。

・中野康実

九戸政実と実親の弟。九戸の乱の際に、兄達と袂を分かち信直に味方。のち中野家は北家や八戸家と同格として重んじられた。

その他、同族の石亀氏や毛馬内氏も家臣化した。

関連項目

東北勢 盛岡

誕生から宗家との対立まで

1546年、清和源氏流南部氏の分家・石川高信の庶長子として誕生。幼名は亀九郎。田子館に入ったことから田子九郎と称した。

1565年、いとこ(異説有)の南部晴政の養子になるも

その後に晴政に実子・晴継が誕生。これで晴政と信直に亀裂が生じたという。

1570年(1571年説有)、実父の石川高信が津軽為信に攻められて自害。ただし、この頃は信直と晴政の関係が悪化していたので、信直の実家・石川氏排除で利害が一致した晴政と為信が企てた陰謀という見方もある。

1576年に晴政の娘である妻が早世したため、養嗣子の座を辞退し、田子館に引きこもる。

だが晴政が信直に不信感を抱き刺客を差し向けたりしたので北信愛・南長義・八戸政栄らと連携し晴政や九戸政実や実親(こちらも晴政の娘婿)と対立する道を選んだ。

家督相続

晴政派と信直派の全面衝突こそ発生しなかったが、やがて晴政と晴継が相次いで死去すると宗家存続での話し合いが再発。

九戸政実は弟・実親を推したが、北信愛が事前に後継候補の一人・八戸政栄に調略を行った結果、信直が当主になる。

津軽為信との対立、九戸政実との対決

何とか当主になった信直だったが、津軽地方の為信の動きはもはや抑えられず信直に先駆けて為信が豊臣秀吉に謁見したことで為信は大名として正式に認められてしまった。

さらに豊臣政権から南部氏惣領の地位を認められた。しかし、これに憤慨した政実は自ら南部家惣領を自称し縁戚の七戸氏らと共に信直に対して反乱を起こす。

南部家随一の精兵と言われた九戸勢は強く、南長義の孫・南盛義らを討ち取られるなど信直は苦戦する。のち豊臣秀次を大将とする大軍の助力もあり平定。そして政実と実親の兄弟は降伏を許されず騙し討ちにされ、九戸勢は女子供に至るまで皆殺しにされた。

その後、九戸城を福岡城と改名し三戸から本拠地を福岡に移した。

その後

朝鮮出兵の際は海こそ渡らなかったが九州へと赴いた。

葛西・大崎一揆に九戸の乱の後、失った津軽三郡の代わりに新たに和賀・稗貫郡を与えられた。このため所領が南に伸び、三戸や九戸では北に寄り過ぎて本拠地としては不便になった。さらに今度は伊達政宗と接したこともあり、南部は津軽と伊達に挟まれる格好になった。このため信直は嫡子・利直に伊達対策として不来方の地に築城を命じた。ちなみに不来方城は信直死後に完成し、利直は福岡から移転して本拠地とした。また利直は不来方を「森が岡」と改名し、子・重直の代にはさらに「盛岡」と改められ今日に至っている。

最後は福岡城で死去。最後の最後まで為信との和解は成立せず(どちらもする気はさらさらなかったが)、両家はずっと対立し続け江戸時代後期には「相馬大作事件」が発生する。

最後は「大事にはいたっていない。海藻が食べたい」と言ったがその直後に死去したという。

1599年11月22日の事であった。

南部家は利直が継ぎ、江戸時代も領地替えもなく続いたが、幕末の戊辰戦争時に奥羽越列藩同盟の一員として新政府軍と戦っている。

主な家臣

・北信愛

南部氏一族で祖父は南部氏21代目だった。

(父が誕生したのが祖父の死没の翌日だったため母方の北氏に追いやられた経緯がある)

1600年の奥州合戦では水沢城に突如攻めてきた一揆勢を少数ながら撃退する活躍を見せた。

八戸氏の力を恐れた信直・利直はけん制役として重く用いた。なお、外甥で養子の直吉(信景)は信愛死後、利直と不和になり出奔し大坂城に入城して大坂の陣を戦うが捕えられ盛岡まで連行され利直の手で処刑されている。

・南長義

石川高信の弟。名は信義とも。信直の叔父にあたる。北信愛と共に積極的に甥・信直を支持した。

・八戸政栄

八戸氏は元々の南部宗家に当たる家柄。信直と晴政が険悪な関係になった時に信直を匿ったこともある。一時は当主候補になるも北信愛の説得で辞退。

盲目であったが信直の右腕として活躍した。

・石川政信

実弟。高信と同様、為信に攻められ自害したというが異説もあり、果ては実在否定される始末である。

・中野康実

九戸政実と実親の弟。九戸の乱の際に、兄達と袂を分かち信直に味方。のち中野家は北家や八戸家と同格として重んじられた。

その他、同族の石亀氏や毛馬内氏も家臣化した。

関連項目

東北勢 盛岡

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