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アメリカ共産党の編集履歴

2012-01-26 19:54:40 バージョン

アメリカ共産党

あめりかきょうさんとう

アメリカのマルクス主義政党。

Communist Party of the United States of America

アメリカのマルクス主義政党。

週刊紙ピープルズ・ウィークリー・ワールド(People's Weekly World)

月刊誌ポリティカル・アフェアズ(Political Affairs Magazine)を出版している。

Communist Party USA (Soviet Anthem In English)

歴史

1919年9月1日、モリス・ヒルキット率いるアメリカ社会党の改良主義的な路線に反対して離党した左派党員により結成。


当初はアメリカ共産党とアメリカ共産労働党に分かれて出発したが1921年5月に統合した。

発足時点の党員のほぼ7割はアメリカ国籍を持たない外国人とりわけ東欧系ユダヤ人で占められていた。


穏健派の社会党がわずか4万人の規模だったのに対し、結成から1ヶ月で共産党はアナーキストやその他の急進派も含め6万人の党員を獲得した。


一時党員は数万人に達したといわれているが、1920年1月の司法長官ミッシェル・パーマーによる一斉検挙によって数千人の党員が逮捕され、特に海外生まれの党員は国外追放されて大ダメージをうけ、1920年代は沈滞する。共産党は地下活動を余儀なくされ、当局の弾圧を避けるため何度か党名を変更した。


1928年、ジェームズ・キャノンやマックス・シャハトマンらトロツキストが党から追放された。

のちに彼らはアメリカ共産主義者同盟を結成し、1937年には第四インターナショナルの加盟政党である社会主義労働者党を結成した。


1929年に大恐慌が米国を襲い、労働運動や社会改革運動が再び台頭の兆しをみせるなかで、共産党は学生運動や労働運動、公民権運動などに着手し、大衆運動に影響力を拡大しはじめる。


他方で1930年代にはスターリンのモスクワ裁判を支持するなどの教条主義的、硬直的な態度は知識人や学生に幻滅をあたえ、後に「ニューヨーク知識人」と呼ばれるようになった社会学者のリチャード・ホフスタッターやダニエル・ベルらは離党し、敵対していく。


1932年全国産業復興法(NIRA)が議会を通過し、翌1933年にはヒトラーがドイツで政権を掌握すると、それまで対立していたアメリカ労働総同盟(AFL)に党員を大量に入党させるなど他勢力との協調の道を探り始め、コミンテルンの人民戦線路線を積極的に採用し、ニューディール・リベラルなどとの共同関係を強めて反ファッショ運動の一翼を担う。


そのなかでもとりわけ有名なのは、スペイン共和国支援のための国際旅団「エイブラハム・リンカーン大隊」である。リンカーン大隊は労働者を中心とする義勇兵の部隊で、1938年に撤退するまで前線で戦い続けた。


リンカーン大隊の副官オリバー・ローはアフリカ系アメリカ人で彼は合衆国の歴史上白人と黒人の混成部隊では初の黒人指揮官だった。

また炊事兵のジャック白井は日本の函館から来た移民だった。


1936年の大統領選では、党首アール・ブラウダーがアメリカ社会党の大統領候補ノーマン・トーマスに対し、副大統領候補として出馬することを提案したが拒否されている。


アメリカ南部では黒人運動の組織化をすすめるなど、先駆的な取り組みもなされた。


1931年、アラバマ州スコッツボローで、9人の黒人少年がレイプの冤罪で逮捕され、死刑判決を受けたスコッツボロー事件では大規模な釈放運動を行い、再審の上解放を勝ち取った。


1939年頃には党員数はおよそ10万人に達したといわれている。

党員のほぼ7割はニューヨーク州に集中していたといわれ、同市議会などで議席を獲得したこともあった。

また事実上の後援政党であったアメリカ労働者党からは、下院議員を当選させてもいる(ヴィトー・マーカントニオ、ニューヨーク州)また同時期に台頭したアメリカ産別会議(CIO)内にも影響力を拡大し、第二次世界大戦中にはCIO傘下の労働組合執行部の3分の1をにぎっていたという説もある。


このほかアメリカ共産党は第二次エチオピア戦争や日中戦争に対する反対運動を起こし、政府に対して戦争物資の対日出荷停止を要求した。


しかし1939年の独ソ不可侵条約をうけ同党が反ファッショ戦線を事実上放棄したことが共同関係にあったリベラルや一部の宗教者に取り返しのつかない幻滅感を与えてしまった。

戦後のアメリカ・リベラルの反共主義の根拠はこの事件にあるといっても過言ではない。


その後ドイツがソ連に侵攻し、独ソ協定が破棄されたことで同党は再び反ファッショ戦線に復帰するが、もはや共同関係がもどることはなかった。


戦時下では第二次世界大戦を反ファシズム戦争であるとみなしてルーズベルト政権に積極的に協力し、ストライキなどのサボタージュ的行動にも抑制的になり、陸軍大尉のアレクサンダー・シュアやハイマン・ベートヒャーら数人の党員は軍から勲章を授与されている。書記長アール・ブラウダーは愛国心から党のアメリカ同化路線を追求し、急進的、革命的路線は後退。


そして1943年にはコミンテルン解散に合わせ、もはや党は必要ないとして、「アメリカ共産主義者協会」に改組してしまう。こうした穏健路線は冷戦の開始と共に否定され、1945年にフランス共産党幹部のジャック・デュクロがブラウダーを批判すると共産党は再組織化され、プラウダーは追放される。


司法省、FBIなどの公安機関は、戦時下でも共産党への監視を緩めることはなかったが、党が穏健路線をとっていることとソ連が連合国軍であることから目立った逮捕起訴は行わなかった。


しかし1947年のトルーマン・ドクトリン以降、冷戦激化のもとで本格的な取り締まりに乗り出す。

その嚆矢が1949年の「デニス事件」である。同事件で党書記長デニス以下7人の幹部が「実力あるいは暴力による政府の転覆」を唱導したかどで逮捕・起訴され、同年暮れには連邦最高裁が有罪判決を下した。そして、第二波、第三波と検挙が行なわれ、党の幹部組織は壊滅的なダメージを受けた。


またリチャード・ニクソンの非米活動委員会やジョセフ・マッカーシーによる赤狩り(マッカーシズム)は、党のイメージを著しくダウンさせることになった。1940年代後半から党員数は激減し、1950年代末には2千人程度にまで減少したといわれる。


1954年には政府によって非合法化され、1956年のハンガリー動乱およびニキータ・フルシチョフによるスターリン批判は共産党内に大きな衝撃を与え、数多くの党員が離党した。


の後しばらくの間、党は民主化されたかのように見えたが、ガス・ホールが党首となると民主派は追放され、党は再び反修正主義に傾いた。一方で同じ反修正主義の立場をとる毛沢東主義者と対立し1961年に毛沢東主義者が離党して進歩的労働党(Progressive Labor Party)を結成した。


その後公民権運動やベトナム反戦運動など社会運動は再び活発化し1970年の時点で2万5千人ほどの党員がいたが、共産党が1930年代のような役割を果たす事は最早なかった。

共産党はベトナム戦争の即時停戦を主張せず北ベトナムの指導部とアメリカ政府の交渉を主張し、他の左派勢力から非難されたが、実際にはこの主張は北ベトナム側の考えと一致していた。


一方で、共産党は官僚主義およびソ連との友好関係のために新左翼から嫌悪されていた。ソ連崩壊までは「ソ連共産党アメリカ支部」と揶揄されるほどソ連寄りであった。


1984年にはロナルド・レーガンの反共政策によって支持を失い、大統領選への出馬を停止した。その後はグレナダ侵攻や中米の反共政権への支援に対する反対運動を展開した。


冷戦終結後は自然消滅すると見られていたが、意外にも党員は増えているという。ある意味共産主義へのネガティブイメージとなっていた「ソ連の走狗」という印象が払拭されたことにより二大政党制に飽き足らない急進左派勢力の支持が得やすくなったことが理由として挙げられる。


現党首のサム・ウェッブは登録党員数が1万5千人を超えたと主張している。


1982年に日本共産党との関係が断絶したが、その後2004年1月の日本共産党第23回大会に、党副議長が来賓として24年ぶりに参加、祝電も送っている。

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