- ♪英語『インターナショナル』
概要
アメリカ共産党(英語:Communist Party of the United States of America or Communist Party USA:Soviet Anthem In English)はアメリカ合衆国のマルクス主義政党(共産党)。
本部はニューヨーク。
1920年代から40年代の労働運動に大きな影響力が存在したが、その後は非合法化やソ連の言いなりという批判も存在し停滞した。党首は書記長、あるいは議長である。
なお、政党としてはいまだ非合法であると思われるが、団体としての結社や活動等は禁止されていない状況と思われる。
歴史
この政党は1919年9月1日、モリス・ヒルキットが率いたアメリカ社会党(社会主義政党、1901年設立、1970年代にベトナム戦争の対応等のため3つに分裂した、分裂した先は現代のアメリカ合衆国社会党、アメリカ民主社会党、合衆国社会民主党)の改良主義的な路線に反対して離党した左派党員により結成。
当初
当初はアメリカ共産党とアメリカ共産労働党に分かれて出発したが1921年5月に統合した。
発足時点の党員のほぼ7割はアメリカ国籍を持たない外国人、とりわけ東欧系ユダヤ人で占められていた。
分裂元で穏健派である社会党がわずか4万人の規模だったのに対し、これらの政党は結成から1ヶ月でアナキストやその他の急進派も含め6万人の党員を獲得したとされる。
一方1920年1月の司法長官ミッシェル・パーマーによる一斉検挙により数千人の党員が逮捕、特に海外出身の党員は国外追放されて大ダメージをうけ、1920年代は沈滞する。共産党は地下活動を余儀なくされ、当局の弾圧を避けるため何度か党名を変更した。
1928年、この政党で議長や大統領候補となったジェームズ・キャノンやマックス・シャハトマンらをトロツキストとして党から追放され、彼らはアメリカ共産主義者同盟を結成し、1937年には社会主義労働者党(第四インターナショナル、トロツキーの呼びかけにより1938年に結成された国際共産主義組織の加盟政党であったが、キューバと関係を深め1982年にはトロツキズムを放棄)を結成した。
1929年に世界恐慌が米国を襲い、労働運動や社会改革運動が再び台頭の兆しをみせる中、共産党は学生運動や労働運動、公民権運動などに着手し、大衆運動に影響力を拡大しはじめたものの、1930年代にはスターリンのモスクワ裁判を支持するなどの教条主義的、硬直的な態度は、新しく支持しかけていた知識人や学生に幻滅をあたえ、社会学者のリチャード・ホフスタッターやダニエル・ベルらは離党し、敵対していく。
他勢力との協力姿勢
1932年全国産業復興法(NIRA、ニューディール政策の中の最重要法律、不況カルテルを容認、労働者の団結権や団体交渉権を認める法律、ただし1935年に違憲とされ廃止)が議会を通過し、翌1933年にはヒトラーがドイツで政権を掌握すると、それまで対立していたアメリカ労働総同盟(AFL、1886年に結成されたアメリカの労働組合)に党員を大量に入党させるなど、他勢力との協調の道を探り始め、コミンテルンの人民戦線路線を積極的に採用し、ニューディール・リベラルなどとの共同関係を強めて反ファッショ運動の一翼を担う。
そのなかでもとりわけ有名なのは、スペイン内戦においてスペイン第二共和政支援のための国際旅団「エイブラハム・リンカーン大隊」(リンカーン大隊の副官オリバー・ローはアフリカ系アメリカ人で彼は合衆国の歴史上白人と黒人の混成部隊では初の黒人指揮官だったり炊事兵のジャック白井は日本の函館から来た移民だったりする)である。リンカーン大隊は労働者を中心とする義勇兵の部隊で、1938年に撤退するまで前線で戦い続けた。
1936年の大統領選では、書記長アール・ブラウダーがアメリカ社会党の大統領候補 ノーマン・トーマスに対し、副大統領候補として出馬することを提案したが拒否されている。
またアメリカ南部では黒人運動の組織化をすすめるなど、先駆的な取り組みもなされ、例えば1931年、アラバマ州で9人の黒人少年が強姦容疑で逮捕され、死刑判決を受けたスコッツボロー事件では大規模な釈放運動を行い、再審の上冤罪だったとわかり解放を勝ち取った。
これらの状況もあり、1939年頃には党員数はおよそ10万人に達したといわれ、党員のほぼ7割はニューヨーク州に集中していたといわれ、同市議会などで議席を獲得したり、事実上の後援政党であったアメリカ労働者党からは国会議員に相当する下院議員を当選させてもいる(ニューヨーク州のヴィトー・マーカントニオ)。また同時期に台頭したアメリカ産別会議(CIO)内にも影響力を拡大し、第二次世界大戦中にはCIO傘下の労働組合執行部の1/3を掌握していた説もある。
このほかこの政党はは第二次エチオピア戦争(1935年~1936年に発生したイタリア王国とエチオピア帝国の戦争)や日中戦争に対する反対運動を起こし、政府に対して戦争物資の対日出荷停止を要求した。
ソ連への忠誠とアメリカへの忠誠
ところが、1939年に独ソ不可侵条約(ファシズム国家であるドイツと共産主義国家であるソ連が相互不可侵および中立義務を約束した条約、実際には複数の密約が存在し、第二次世界大戦の引き金の一つとなった)が締結されると同党が反ファッショ戦線を事実上放棄したことが共同関係にあったリベラルや一部の宗教関係者に取り返しのつかない幻滅感を与えてしまい、この影響は戦後のアメリカ・リベラルの反共主義の根拠になったとされる。
1941年にドイツがソ連に侵攻し、独ソ協定が破棄されたことで同党は再び反ファッショ戦線に復帰するものの、共同関係がもどることはなかった。
戦時下では第二次世界大戦を反ファシズム戦争であるとみなしてルーズベルト政権に積極的に協力し、ストライキなどのサボタージュ的行動にも抑制的になり、陸軍大尉のアレクサンダー・シュアやハイマン・ベートヒャーら数人の党員は軍から勲章を授与されている。書記長ブラウダーは愛国心から党のアメリカ同化路線を追求し、急進的、革命的路線は後退。
そして1943年にはコミンテルン解散に合わせ、もはや党は必要ないとして、「アメリカ共産主義者協会」に改組してしまう。
再びソ連への忠誠
こうした穏健路線は第二次世界大戦の終了、およびその後の冷戦の開始と共に否定され、1945年にフランス共産党(後に社会党となるフランス社会党から分裂し1921年に結成されたフランスの左翼政党、現在でもフランス議会に議席を所有している)の幹部であったジャック・デュクロがブラウダーを批判すると共産党は再組織化され、プラウダーは追放される。
司法省、FBIなどの公安機関は、戦時下でもこの党への監視を緩めることはなかったが、党が穏健路線をとっていることとソ連が国際連合側であることから目立った逮捕起訴は行わなかったが、1945年にルーズベルトが死亡し副大統領であったトルーマンが大統領に繰り上がると風向きが変わる。
1947年のトルーマン・ドクトリン(「武装少数派、あるいは外圧によって試みられた征服に抵抗している、自由な民族」を支援するとし共産党を封じ込める政策)以降、冷戦激化のもとで本格的な取締に乗り出し、1949年には議長と書記長(当時は議長と書記長が両立)を含む3度の集団的検挙が行なわれ、党の幹部組織は壊滅的なダメージを受け、その後もリチャード・ニクソンの非米活動委員会(1938年、国内での破壊活動調査の目的で特別委員会として発足1945年に常任委員会となった、当初はファシストが対象だったがのちに共産主義が対象となった)やジョセフ・マッカーシーによる赤狩り(マッカーシズム)は、党のイメージを著しく失墜させ、1940年代後半から党員数は激減し、1950年代末には2千人程度にまで減少したといわれる。
さらに1954年には政府によって非合法化(合法な「政党」として認められない状態であり、結社の禁止ではないことに注意)され、1956年のハンガリー動乱(ハンガリーにおいて反ソ連の蜂起が発生し、ソ連は弾圧し制圧した)およびソ連のフルシチョフによるスターリン批判は共産党内に大きな衝撃を与え、数多くの党員が離党した。
これを受けて党は再建のため民主化されるかのように見えたが、反修正主義者のガス・ホールが書記長となると民主派は追放されたが、同じ反修正主義の立場をとる毛沢東主義者(文化大革命の毛沢東の思想、人民戦争理論、暴力革命・武装闘争肯定と平和革命否定、階級闘争絶対化などを軸としており、原始共産制からこの思想に至ることがある)と対立し1961年に毛沢東主義者は離党、進歩的労働党(Progressive Labor Party、現在では中南米などにも勢力を持つ国際的な政党あるは団体となっている)を結成した。
その後
その後公民権運動やベトナム反戦運動など社会運動は再び活発化し1970年の時点で2万5千人ほどの党員が存在していたが、1930年代のような役割を果たすことはできなかった。また一般的なアメリカの左派が主張していた「ベトナム戦争の即時停戦」を主張せず「北ベトナムの指導部とアメリカ政府の交渉」を主張、他の左派勢力から非難されたが、実際にはこの主張は北ベトナム側の考えと一致していた。
1984年にはレーガンの反共政策のためさらに支持を失い、それまで行っていた党員の大統領選への出馬(出馬に関しては「アメリカ合衆国内で出生した合衆国市民」であれば可能であるが多数の州では一定数の有権者による署名が必要となる)を停止せざるを得なくなった。
その後はグレナダ侵攻や中央アメリカの反共政権への支援に対する反対運動などを展開した。
一方で、この党は官僚主義およびソ連との友好関係のために新左翼(先進国にて急進的な革命を志向し若者を中心として構成された左翼的な政治運動や政治勢力)から嫌悪され、ソ連崩壊までは「ソ連共産党アメリカ支部」と揶揄されるほどソ連寄りであった。
冷戦終結後
冷戦終結後は目的を喪失したため自然消滅すると見られていたが、意外にも党員は増えているとされ、共産主義へのネガティブイメージとなっていた「ソ連の走狗」という印象が払拭されたことにより二大政党制に飽き足らない急進左派勢力の支持が得やすくなったことが理由として挙げられる。
2000年から2014年まで議長であったサム・ウェッブは登録党員数が1万5千人を超えたと主張しているが、2022年現在は5000人程度とされている。
他国との関係
【機関紙】
- 週刊紙ピープルズ・ウィークリー・ワールド(People's Weekly World)
【党誌】
- 月刊誌ポリティカル・アフェアズ(Political Affairs Magazine)
- Communist Party USA (Soviet Anthem In English)