源行家
みなもとのゆきいえ
源行家とは、平安時代末期の武将である。
概要
河内源氏の棟梁・源為義の十男、母の名は伝わっていない。熊野十郎と称す。
生年 永治元年(1141年)から康治2年(1143年)までの間に生まれたと伝えられる。
没年 文治2年(1186年)
平治2年(1160年)に起きた平治の乱では兄・源義朝に従って平家と戦って敗れ、一族の多くが討たれるなか熊野に落ち延び、同地で20年近く隠遁生活を送る。
治承5年(1181年)、後白河法皇の第三皇子・以仁王が源頼政とともに反平家の兵をあげると、山伏に扮した行家は「平家打倒」を記した以仁王の令旨を各地に散らばる源氏にもたらしていく。
これにより、木曽の源義仲(源義賢の次男)、伊豆の源頼朝(源義朝の三男)、奥州平泉の源義経(源義朝の九男)らが蜂起、義経は頼朝の陣営に加わった。
寿永2年(1183年)、義仲と入京するが、義仲とすぐに仲たがい、平家打倒を名目に京を離れる。
直後に、義仲は「源義仲追討」の命を受けた鎌倉から上洛した義経・範頼軍に敗れ討ち死に、義仲を討ち取った義経・範頼軍は京から西へと兵を進め、
元暦2年(1185年)、壇ノ浦において平家を滅亡させるにいたった。
壇ノ浦の戦い後、京の義経と鎌倉の頼朝の間に対立が起きる。
行家は義経方について頼朝と対立を深めたが、義経の西国渡航の失敗とともに頼朝方に捕らえられ、山城国において首を討たれたと伝えられている。