ピクシブ百科事典は2023年6月13日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴

黄梅院の編集履歴

2022-03-09 06:04:29 バージョン

黄梅院

おうばいいん

黄梅院(天文12年(1543年) - 永禄12年6月17日(1569年7月30日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。

概要

武田信玄と正室である三条の方(三条夫人)の長女で、北条氏政の正室。武田義信は同母兄、武田勝頼は異母弟。


生涯

甲斐国の生まれ。今川家・武田家・後北条家の甲相駿三国同盟のために、天文23年(1554年)12月、12歳で北条氏康の嫡男・氏政の元に嫁ぐ。その輿入れ行列は、一万人ものお供の者が付き従い、大変豪華であったと伝えられている。また、信玄は彼女のために弘治3年(1557年)の11月には、安産の神である「富士御室浅間神社」に安産祈願をしており、子煩悩であったことが覗える。

弘治元年(1555年)に男子(名前不明、夭折)、その翌年末に女子を産む。永禄5年(1562年)に、嫡男氏直を出産し、8年に氏房、その後直重、直定を産むなど夫婦仲は良好で、彼女の生涯は順調かと思われた。しかし、永禄11年(1568年)12月13日、父の信玄の駿河国進攻により三国同盟は破綻(兄・義信はこの過程で信玄に廃嫡される)。信玄の駿河侵攻に激怒した氏康は黄梅院を甲斐に送り返した。その際氏政からは堪忍分として16貫文余を与えられている。

夫・氏政と離縁し、しばらくは鬱々とした日々を送っていたと思われるが、甲府の大泉寺の安之玄穏住職を導師に、出家したとも言われる。そして永禄12年(1569年)6月17日、27歳で死去した。


ところが、平成31年(2019年)になって、黄梅院が離縁されたというのは、1970年代にとある郷土史家が史料を誤読したことによって生み出された間違いに過ぎないとする論文が出され、その後彼女が武田家に戻っていないことを裏付ける研究も出されたことから、現在では離縁されずに氏政のいる小田原城で亡くなったと考えられている。


戦国大戦において

両親である信玄・三条夫人と同様に、武田家の武将として「1570 魔王上洛す」から参戦。

ゲーム上では、『器の小さい男ね』(計略使用時)や、『こんなもの?残念だわ』(虎口攻め成功時)という台詞から気の強いイメージが取れる。


スペックは、コスト1 武力1/統率4(Ver1.1x「魔王上洛す」までは武力2/統率3)の槍足軽で、特技は「魅力」。

母親同様、武田のコスト1帯を支える一人である。


持ち計略である「挑発」は、範囲内に居る敵軍を、「黄梅院に向かって誘導させる」ように仕向けられる。

恭雲院とはまた違った方向性で敵軍の超絶強化をいなしたり、行ってほしくない方向(自城や大筒)に敵軍が向かうのを防ぐのに一役買ってくれる。


「器の小さい男は、お呼びじゃないの」

問題を報告

0/3000

編集可能な部分に問題がある場合について 記事本文などに問題がある場合、ご自身での調整をお願いいたします。
問題のある行動が繰り返される場合、対象ユーザーのプロフィールページ内の「問題を報告」からご連絡ください。

報告を送信しました