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本山哲の編集履歴

2022-04-26 20:00:18 バージョン

本山哲

もとやまさとし

本山哲とは、東京都出身のレーシングドライバーである。

曖昧さ回避

同姓同名の音響監督がいる。⇒Wikipedia


プロフィール

生年月日:1971年3月4日

身長:171cm

体重:62kg

血液型:Rh+O

主な愛車:日産GT-R,フェアレディZロードスターなど

レーシングドライバーとしての歩み

両親がレーシングカート場を経営していたこともあり幼少期からポケバイ、レーシングカートに触れて育つ。少年時代には、ポケバイやレーシングカートの全国大会で優勝もしている。

1986年に全国レーシングカート選手権A1クラスに初エントリー。初年度にしてA1クラスシリーズチャンピオンに輝く。その後87年、89年にA2クラスでチャンピオンを獲得。

1990年、全日本F3選手権(現スーパーフォーミュラ・ライツ)にエントリーし、四輪へのステップアップを果たす。ここで圧倒的な速さを見せ、帝王の異名を取るまでにその才能を開花させた。

1996年にJGTCに参戦。以降、改称したSuperGTも含め、数年の空白期間を除いても、20年以上エントリーし続けていた。またこの年、フォーミュラ・ニッポンにもエントリー。以降2008年までエントリーした。

そして、2019年引退。スーパーフォーミュラで監督に就任した。しかし、2021年、#6 Team Lemanns R8LMSでSUPER GTにGT300クラスで復帰。しかし、2022年開幕戦岡山の1週間後、チームから契約解除のニュースが発表された。しかし、本人のTwitterによれば、引退する気は毛頭無い様子。これからも"帝王"本山哲の挑戦は続く。

フォーミュラ・ニッポンでは、1998年、2001年、2003年、2004年の計4回、SUPER GTでは全日本GT選手権時代も含め、2003年、2004年、2008年の計3回チャンピオンを獲得している。

一方海外レースへの参戦には消極的だったが、2003年に幼なじみで親友の加藤大治郎がMoto GPで事故死してから、一転してF1への道を模索したが、契約には結び付かなかった。

また大治郎が事故死してからは、天国の彼に勝てるようにレースをしていたとGT500引退記念の特集をしたGT+で語っている。

関連項目

脇阪寿一····永遠のライバル

加藤大治郎····親友、幼なじみそしてライバル。

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