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テオドール・ヴィッシュの編集履歴

2022-06-12 15:39:33 バージョン

テオドール・ヴィッシュ

ておどーる

テオドール・ヴィッシュ(Theodor Wisch)とはドイツ第三帝国ナチス武装親衛隊の将校である。

概要

○○ とは ~ である。~の作品に出てくるキャラクターで、通称・・・として親しまれている。作中では、△△なことをしている。


プロフィール



人物

如何なる戦局に於いても沈着かつ冷静に情勢を判断力の高さは武装親衛隊、ドイツ国防軍の指揮官のみならず同盟国軍の将校達からも、その指揮能力は一目置かれるものがあり部下達からも頼りにされて“Teddy”という愛称もつけられていた。


経歴

ヴェッセルブレナーコークの農家の出身。1930年に親衛隊に入隊(隊員番号4,759)。ポーランド侵攻の際には親衛隊大尉となり、https://dic.pixiv.net/a/LSSAHに配属された。1940年1月30日に親衛隊少佐となり、LSSAHに属する第Ⅱ大隊の指揮官となり、西方戦やバルカン戦線 (第二次世界大戦)を戦った。その後、とともに1941年6月から始まった独ソ戦に転じた。

1941年7月11日のウクライナ方面においてジトミル攻勢の際、西翼攻撃での戦功で騎士鉄十字章を授与された。

1942年秋LSSAHの第2装甲擲弾兵連隊の指揮官となりゼップ・ディートリヒの元で活躍すると1943年1月30日に親衛隊大佐に昇進した。

第三次ハリコフ攻防戦では勇戦が認められてドイツ十字章金章を受章した。1943年4月7日にSS装甲軍団長へと栄転となったゼップ・ディートリヒの後任として第1SS装甲師団長となったLSSAHに師団長として就任し、7月1日には親衛隊上級大佐に昇進した

1944年2月にコルスン包囲戦にてシュテンマーマン集団の56,000名がコルスンでソ連軍に包囲された。(コルスン包囲戦)

第1SS装甲師団はソ連軍に包囲された救出に投入されたがこの際ヒトラーが作戦に介入し、ソ連軍の2個方面軍を逆包囲しろと言う無謀とも言える命令を受ける。

ヴィッシュはこのヒトラーの命令を無視して当初の作戦目的である包囲された味方の救出を試みる。ソ連軍の4個戦車軍団の攻撃に第1SS装甲師団の損害も大きかったが、2月末までに包囲を破ってグニロイ・ティキッチ川に到達、そこに小さな橋頭堡の構築に成功してシュテンマーマン集団は橋頭堡を経由して脱出に成功する。ヴィッシュはこの時の功績で武装親衛隊少将に昇進するとともに騎士鉄十字章柏葉章を受章。

しかし3月になり態勢を整えたソ連軍の春期攻勢を前に食い止められず兵員は1250名以下になった上に師団どころか第1装甲軍自体がカメネツ・ポドルスキー付近でソ連軍に包囲されてしまう。

ソ連軍の総攻撃が始まる直前に包囲網を脱出するも、その消耗は甚だしく…第1SS装甲師団は休養および再編の為ベルギーに送られることとなった。


1944年7月中旬からのカーン~ファーレーズ間を巡る攻防戦は激烈を極め、連合国軍による包囲網は着実に狭まりつつあった。

ドイツ軍の防御は弱体化し、消耗が激しく戦闘を維持することができなかった。国防軍と武装親衛隊は再編の為にセーヌ川までの撤退を本国に打診したがヒトラーは撤退を許さず、逆に連合軍への攻撃を命じた。

命令を受けたヴィッシュの第1SS装甲師団は8月7日に4個SS装甲師団と国防軍の3個装甲師団と連携して連合軍へ攻撃を敢行。その日の天候が悪く連合軍は航空支援を受けられなかった為に初めの内は攻撃は順調に進み第2SS装甲師団はモルタンを再占領し、パイパー戦闘団も連合軍の補給物資の集まっていたボーロピンに接近したが、天候回復と共に大量の連合軍の航空機がドイツ軍に襲い掛かり攻勢は失敗した。

この戦闘で第1SS装甲師団はhttps://dic.pixiv.net/a/%E3%83%9F%E3%83%8F%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%9E%E3%83%B3率いるティーガー戦車隊など多くの熟練兵と装備を失った。(ミハエル・ヴィットマンは8月8日に戦死している)


8月13日の時点で第1SS装甲師団保有戦車台数は、わずかにⅣ号戦車14輌、Ⅴ号パンター戦車5輌の計19輌ティーガー戦車に至っては全て大破してしまいこの時点で一個戦闘団にも満たないまでに装備、兵力ともに疲弊していた。

ここでついに第7軍司令官ハウサー将軍からノルマンディーからの撤退命令を受けて第1SS装甲師団は国防軍部隊や包囲網の突破を開始する。

厳しい戦局の中に於いて尚、部下をまとめ上げてグーフェルンの森からサン・ランバール・シェル・ディーヴにかけての連合軍の包囲網を突破して味方の退路を確保したヴィッシュの指揮能力に対する評価は高い。

1944年8月20日、連合軍の二度目の包囲突破目前に連合国軍の艦砲射撃によりヴィッシュは両脚を失う程の重傷を負う。その直後に救援に駆けつけた第2SS装甲師団に助けられた。

ヴィッシュは高級将校で一番最初に連絡がついた砲兵連隊長のフランツ・シュタイネックSS中佐に師団の指揮を託して戦場から離脱した。第1SS装甲師団は師団長のヴィッシュの負傷離脱と戦車や野砲の不足で作戦続行不能と司令部へ報告をした後にヨアヒム・パイパーら各指揮官が複数の小戦闘団を率い包囲をくぐり抜けて撤退に成功した。


ヴィッシュに対してはこの時の戦功、戦傷に対して武装親衛隊として第94番目となる柏葉剣章および戦傷章金章が授与されたが軍務を続ける事は困難として第1SS装甲師団長の後任にヴィルヘルム・モーンケが就任した後は終戦までの間、ベルリンの北40㎞程にあるホーエンリューヘン親衛隊病院に入院したまま終戦を迎えてやって来たイギリス軍に逮捕されフランスにて捕虜生活をおくることとなった。

その後は48年に釈放されドイツ最北端の連邦州であり生まれ故郷のシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州…出生地のヴェッセルブレーネルコーフから80㎞程の距離にあるピンネベルクで自叙伝を書いたりと静かな余生を過ごした後に1995年1月11日に亡くなった。(享年87歳)


その他

戦後、武装親衛隊はユダヤ人虐殺や占領地域での戦争犯罪を起訴されて殆どの武装親衛隊将校は1950年代以降も刑務所暮らしだった。

第1SS装甲師団も戦時中は輝かしい戦果があった一方で捕虜の虐殺行為など度々問題を起こして国防軍だけではなく一部の親衛隊将校からもその残虐性を問題視されていたがヴィッシュ本人はそれら戦争犯罪への関与がなかった為に武装親衛隊の上級将校にも関わらず48年に釈放された。





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