松倉勝家
まつくらかついえ
その生涯
肥前国(長崎)の大名家の一つである松倉氏の松倉重政の子として生まれる。
そして、父が建てた島原城を継いで藩主となる。
しかし、父の重政の代から同地では圧政を布いていたのが実情であり、勝家はその方針を継いだとともにさらに過酷な政治で民を苦しめる恐怖政治を行う。
また、キリシタンにも過激な弾圧を加えたがために反攻されてしまう。
これが世にいう島原の乱(島原・天草の乱)である。
乱後、重税や払えなかったものへの拷問を行い民を苦しめたとしてまた、一揆の原因として、江戸時代で唯一、武士の名誉である切腹ではなく不名誉な斬首で処刑された大名となった
ちなみに天草領主・寺沢堅高は領地没収のうえでさまよったが精神を病んで自殺。
島原・天草の領主は二つの家とも断絶。(ただし、勝家の弟たちの家は続いている)
その恐怖政治の実態
勝家の父重政は奈良を統治していた頃は名君との評価もあったが、島原に来てからは人が変わったように弾圧をするようになった。
父の代から、島原藩では実際の石高が4万石程度であるにもかかわらず幕府に10万石と報告し、それを取り繕うために重税をかけていた。
更に、父の代から話があったルソン遠征や城下町の整備、参勤交代の金、島原城の改修など、外様ゆえのコンプレックスから幕府に熱烈なアピールをしようとし、その財源を領民からの税に求めた。
重政や勝家は、そういう意味では仕事熱心と言えなくもなかったが、その熱心さは幕府に対して気に入られることのみに向けられ、領民の負担には全くの無頓着であった。
税の内容も井戸ができたら井戸の税、子供ができたら人頭税、人が死んだら遺体を埋める穴に税や住宅税などありとあらゆるもの、たとえ小さいものでも税をかけた。
そうして納税できなければ人質を取った上で水牢(時には妊婦を入れたという話もある)や蓑踊り(蓑を人にまいて火をつけ踊らせる)という残虐極まる拷問を行ったという。
どんな拷問をしたところで既に領民は出せる財産すら何もない状態であった。
拷問をすればそれでも金が出てくると思ったのか、金が出てこないことを承知で見せしめ目的だったのかは彼のみぞ知る所であるが、いずれにしても勝家は金を集める最低限のセンスさえもなかった。
また、キリスト教に対しても弾圧を加えている。これ自体はどこの領地でも同じであったがこれも他の領地を超えるひどさだったという。
こうした弾圧については当時は日本に合法的に居留していた外国人の日記類だけでなく、日本の記録からも見られ、誇張だけでは到底説明できずほぼ事実と考えられている。
島原の乱後、美作の領主の一つ、森家の森長継に預けられたが、松倉の屋敷から農民の死体がでてきたことで残虐政治が表に出た。
その後、江戸の森家屋敷で斬首にさせられた。
これは幕府が乱を起こした原因として以外で上記の恐怖政治を考えた末できわめて重罪と判断した為である。
また、松倉親子の暴走も、元をたどれば幕府側がキリシタン弾圧の甘さを叱責したり、様々な松倉親子の事業案を褒めたたえてきた幕府側の落ち度による所もあり、その点の負い目もあったという説もある。
島原城を継いだ高力家は忠房(家光も信頼ゆえにあえてここに流したといわれている)が善政をしき、復興はなったが二代目・隆長が税を重くしたため改易。
奇しくも隆長と勝家は二代目で重税を行ったために改易されてしまった人物である
島原はその後深溝松平氏、戸田氏を経て先ほどの深溝松平氏が再び治めることになり明治を迎える。