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松倉勝家

まつくらかついえ

江戸時代初期の大名。
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その生涯


肥前国(長崎)の大名家の一つである松倉氏の松倉重政の子として生まれる。
そして、父が建てた島原城を継いで藩主となる。

しかし、父の重政の方針を継いだとともにさらに過酷な政治で民を苦しめる恐怖政治を行い
また、キリシタンにも過激な弾圧を加えたがために反攻されてしまう。
これが世にいう島原の乱(島原・天草の乱)である。

乱後、重税や払えなかったものへの拷問をを行い民を苦しめたとしてまた、一揆の原因として
江戸時代で唯一、武士名誉である切腹ではなく斬首で処刑された大名となった
ちなみに天草領主・寺沢堅高は領地没収のうえでさまよったが精神を病んで自殺。
島原・天草の領主は二つの家とも断絶。(ただし、勝家の弟たちの家は続いている)

その恐怖政治の実態


父の代から話があったルソン遠征や城下町の整備、参勤交代の金という口実を利用して
重税を行っていたといわれ、井戸ができたら井戸の税、子供ができたら人頭税や住宅税など
ありとあらゆるもの、たとえ小さいものでも税をかけ、
できなければ水牢(時には妊婦を入れたという話もある)や蓑踊り(蓑を人にまいて火をつけ
踊らせる)という残虐極まる拷問を行ったという。

また、キリスト教に対しても弾圧を加えているがこれも他の領地を超えるひどさだったという。

極めつけは島原城の改修によるもので、外様ゆえのコンプレックスから
熱烈なアピールをしようとしたことであった。

島原の乱後、美作の領主の一つ、森家の森長継に預けられたが
松倉の屋敷から農民の死体がでてきたことで残虐政治が表に出た。
その後、江戸の森家屋敷で斬首にさせられた。

これは幕府が乱を起こした原因として以外で上記の恐怖政治を考えた末で
きわめて重罪と判断した為である。

島原城を継いだ高力家は忠房(家光も信頼ゆえにあえてここに流したといわれている)
が善政をしき、復興はなったが二代目・隆長が税を重くしたため改易。
奇しくも隆長と勝家は二代目で重税を行ったために改易されてしまった人物である

島原はその後深溝松平氏戸田氏を経て先ほどの深溝松平氏が再び
治めることになり明治を迎える。


関連項目


恐怖政治 島原の乱 長崎県

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