終戦50周年にあたる平成7年8月15日、村山首相(当時)は、日本の戦争を「侵略」と位置付け、「反省」と「お詫び」の意を表明した。
いわゆる「村山談話」である。
この談話が、後の歴代内閣のアジア外交に関する姿勢を決定づけ、縛りつけるようなものになってしまい、村山以降、いずれの内閣でも「村山談話」から脱却するような閣議決定はなされていない。
これこそ、冷戦終結後に日本を襲った政治混乱の中で誕生した「自社さ政権」という異常な政権によってもたらされた異常な談話としかいいようがない。
村山談話は政府の公式見解となって日本外交を制約し、憲法で保障された表現の自由まで制限するという、言論弾圧の道具となっている。
また、6434人という尊い命が奪われた阪神・淡路大震災では、自衛隊は出動命令を待ち、準備を着々と整えていたが、出動要請が来たのは、発生から4時間余りが過ぎた午前10時を回った頃であった。
一義的には兵庫県の対応に問題があったが、村山首相は大震災への対応に専念するどころか、むしろ党内の新党結成を目指す議員の大量離党問題への対応に腐心していた。
遅れて出動せざるを得なかった自衛隊は混乱に巻き込まれ、実際に部隊が園地に到着し救出活動に当たれるようになるまでには半日ほど要したのである。
初動の遅れが被害を拡大させ、国の最高権力者として国民の命を守ることもできなかったのである。
村山の頭の中には、自衛隊を出したくないという思い込みがあったのだろう。
結局、助ける手段があったにもかかわらず、それを封じたのである。