練習機の統合を求めて
1950年台、英仏両国はそれぞれインドやベトナムを始めとする植民地を激しい独立運動によって手放さざるを得なくなった。第二次世界大戦は終結したが、多くの兵器は「鉄くず」として世界中に流出し、かつての独立運動が再燃したのであった。これに対する英仏それぞれの対応は、平たく言えば武力介入⇒疲弊⇒独立容認の道を辿った。
そのころのイギリス政治
イギリスは主に加工貿易・輸出で稼いでいたが、戦争終結から日が経つにつれて他国の復興は進み、それにつれて商売敵は増え、さらに「ゆりかごから墓場まで」をスローガンとする福祉国家建設という予算青天井の目標に向かったのがまずかった。
輸出するという時点で、海上輸送費も上乗せになるイギリス製品は徐々に売れなくなり、(これは日本でも同様だが)どれだけでも予算が必要になる福祉政策は赤字を赤字で塗り替えた。さらに労働党政権では公益事業(たとえば水道・電気など)の労働組合が力を増し、これがストライキを頻発させたことから、生活にも企業活動にも不便をもたらしていた。鉱工業生産は低下し、「スタグフレーション」という言葉は流行語にまでなっていた。
そのころのフランス政治
第二次大戦終結後もフランスに平和は訪れなかった。
ホー・チ・ミン率いるベトミンが蜂起し、インドシナ戦争が勃発したのであった。50年代に突入するとこれにソ連や中国が支援するようになり、1954年「ディエン・ビエン・フーの戦い」でとうとう押し負けると、当時のマンデス政権はベトナムからの撤退を決めた。
これで一息つけるかと思いきや、同年の内に今度は北アフリカで独立戦争が勃発。モロッコとチュニジアの独立は承認できたが、アルジェリアはフランス系住民も多く居たために独立を認めることは出来なかった。当然、返答は「武力介入」であり、ここでも泥沼のゲリラ戦争になった。
その後、アルジェリア戦争は拗れるに拗れ、『独室絶対阻止』を支持する軍人や住民は政権への不満からクーデターを起こし、フランス本国侵攻を企てるまでになった。当時のコティ政権は懐柔しようとしたが、『ここは一発ガツンと強硬策』を期待するクーデター軍は、コティ政権の退陣とド・ゴールの政権復帰を求めた。もうコティ政権に打つ手は無かった。第四共和政の終わりであった。
こうして大統領の座に戻ったド・ゴールだったが、期待された『ここは一発ガツンと強硬策』を打つことは無かった。終わらない戦争による世論の厭戦ムード、拡大し続ける戦費など、国内の疲弊を鑑みて独立運動を支持するようになった。1960年は年頭からアフリカ各地の独立を認めると発表され、この年は『アフリカの年』と呼ばれるようになった。
当然、これは強硬策を期待した側からは反発され、たとえば1960年1月にはアルジェリア現地住民による「バリケードの一週間」事件が起こった。しかし世論としては独立への支持が大勢を占めるようになってきており、更に先鋭化した強硬派はなりふり構わずテロ活動に走るようになるのだった。