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ジャギュア

じゃぎゅあ

1960年代、練習機を求めるイギリスと、練習・攻撃機を求めるフランスが共同開発した超音速機で、英仏双方の複数機種をそれぞれ統合すべく設計された。輸出では英仏の利害がなかなか一致せず、輸出先は4か国と限られてしまった。
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「ジャギュア」の時代背景と開発編集

この頃の植民地事情編集

1950年代、英仏両国はそれぞれインドやベトナムを始めとする植民地を激しい独立運動によって手放さざるを得なくなった。第二次世界大戦は終結したが、多くの兵器は「鉄くず」として世界中に流出し、かつての独立運動が再燃したのであった。これに対する英仏それぞれの対応は、平たく言えば武力介入⇒疲弊⇒独立容認の道を辿った。


そのころのイギリス政治編集

イギリスは主に加工貿易・輸出で稼いでいたが、戦争終結から日が経つにつれて他国の復興は進み、それにつれて商売敵は増え、さらに「ゆりかごから墓場まで」をスローガンとする福祉国家という、予算青天井の目標に向かったのがまずかった。


輸出するという時点で、海上輸送費も上乗せになるイギリス製品は徐々に売れなくなり、最終的にはどれだけでも予算が必要になる福祉政策は、赤字を赤字で塗り替えた。さらに労働党政権下では公益事業(たとえば水道・電気など)の労働組合が力を増し、これがストライキを頻発させたことから、国民生活にも企業活動にも不便をもたらしていた。鉱工業生産は低下し、「スタグフレーション」という言葉は流行語にまでなっていた。


また、1947年にインドパキスタンが独立すると、他の地域にも自主独立を掲げる運動は広まり、マレーシアビルマが続いた。独立運動を抑えこむためには軍隊を派遣して鎮圧しなければならないが、その費用にも苦労するようになっていた。もはや植民地はカネを生み出さない。維持費がすっ飛んでいくばかりだ。


1956年に起こった第二次中東戦争では、イスラエル・フランスと共にスエズ侵攻に参加したが、何と米ソが合同で停戦を迫るという事態になり、当時のイーデン政権は総辞職に追い込まれた。こうなるとアフリカへの影響力も低下し、57年のガーナ独立以降は植民地を失う一方になった。「大英帝国」の威信は、もう取り戻しようも無い程に落ち込んでいた。


そのころのフランス政治編集

第二次大戦終結後もフランスに平和は訪れなかった。

ホー・チ・ミン率いるベトミンが蜂起し、インドシナ戦争が勃発したのであった。50年代に突入するとこれにソ連や中国が支援するようになり、1954年「ディエン・ビエン・フーの戦い」でとうとう押し負けると、当時のマンデス政権はベトナムからの撤退を決めた。


これで一息つけるかと思いきや、同年の内に今度は北アフリカで独立戦争が勃発。モロッコチュニジアの独立は承認できたが、アルジェリアはフランス系住民も多く居たために独立を認めることは出来なかった。当然、返答は「武力介入」であり、ここでも泥沼のゲリラ戦争になった。


その後、アルジェリア戦争は拗れるに拗れ、『独立絶対阻止』を支持する軍人や住民は政権への不満からクーデターを起こし、フランス本国侵攻を企てるまでになった。当時のコティ政権は懐柔しようとしたが、『ここは一発ガツンと強硬策』を期待するクーデター軍は、コティ政権の退陣とド・ゴールの政権復帰を求めた。もはやコティ政権に打つ手は無かった。第四共和政の終わりであった。


こうして大統領の座に戻ったド・ゴールだったが、期待された『ここは一発ガツンと強硬策』を打つことは無かった。終わらない戦争による世論の厭戦ムード、拡大し続ける戦費など、国内の疲弊を鑑みて独立運動を支持するようになった。1960年は年頭からアフリカ各地の独立を認めると発表され、この年は『アフリカの年』と呼ばれるようになった。


当然、これは強硬策を期待した側からは反発され、たとえば1960年1月にはアルジェリア現地住民による「バリケードの一週間」事件が起こった。しかし世論としては独立への支持が大勢を占めるようになってきており、更に先鋭化した強硬派はなりふり構わずテロ活動に走るようになるのだった。


練習機の統合を求めて編集

以上のように、英仏は財政が逼迫しはじめた。

とくに、差し当たって軍隊は大きくする必要はないから、出来るだけ無駄を削って、合理的・機能的に再編した方が役に立つだろう。


そんな中、両国の空軍がひねり出したのは練習機の統合である。

イギリスではフォーランド「ナット」とホーカー「ハンター」、フランスではフーガ「マジステール」T-33、ダッソー「ミステール」による訓練課程を1機種に統合しようというのである。


また、当時の流行として超音速練習機の開発が流行しており、この統合練習機には超音速性能も盛り込むことになった。設計案はイギリス・フランス両国のさまざまなメーカーから提案されたが、これは1965年、『英仏両国による超音速練習機(ECAT、つまり本機のこと)と可変翼戦闘機(AFVG)を開発する会社』が設立され、実際の作業はBACとブレゲーが分担する事で決着した。


エンジンでも英仏のエンジンから選定される事になり、ロールスロイスのRB.172が選定された。


統合できるもの・できないもの編集

ところが、うまく行っていたのはそれ位のもので、以降は両国とも「金欠病」がますます進行した事から足並みは揃わなくなってしまう。


70年代に入ると、並行して作業が進んでいたAFVGにフランス政府は出資を引き揚げて開発中止となり、ブレゲー社もダッソーに吸収される事になったのだが、そのダッソーはフランスの利益を優先し、シュペルエタンダールミラージュF1の採用を政府に働きかけたのである。


結果、フランス政府はECATよりも国産の両機種を採用することになった。またAFVGの試験機としてミラージュGを開発していたが、これは71年に墜落した。その後はコストダウンを図って「迎撃戦闘機」としたミラージュG4に絞って開発を継続したが、結局はAFVGそのものが計画中止されてしまった。


この中止はフランスだけでなく、イギリスにも深刻な影響を及ぼした。AFVGはイギリスも導入する計画だったのである。AFVGに替わってTSR-2F-111などの戦闘爆撃機を導入しようとするが、上手くいかずに中止された。しかし、対地攻撃ならば元々ECATが予定していたため、イギリスは練習機型ECATだけでなく、AFVGに替わる攻撃機型ECATも導入することにした。


これでようやく、ECATはイギリス・フランス向けの練習機・攻撃機(計4種)となった訳である。


初飛行編集

ジャギュアの1号機は1968年9月8日に初飛行を遂げた。これは複座の練習機型で、単座型は英仏とも1969年には初飛行に成功した。SEPECATではフランス向け機を「ジャギュアA」、イギリス向けは「ジャギュアS」と分類しており、それぞれ機体は同じだが、電子機器は違うものを搭載している。


その後は当初の計画に従って、英仏それぞれ200機の計400機、インドではライセンス生産を含めて120機が導入された。後はエクアドル・オマーン・ナイジェリアへ12機・24機・18機が輸出されたという。


主な派生型編集

ジャギュアA編集

1973年から配備されたフランス空軍向け攻撃機型ジャギュアで、能力的には戦術核爆弾AN-52を搭載可能だったが、実際には用いられなかった。


1977年にモーリタニアで実施された「ラマンタン作戦」を皮切りに、もっぱら前線の精密攻撃任務向けに投入され、1995年のボスニア・ヘルツェゴビナ紛争における空爆作戦まで活躍した。


主な武装は機銃DEFA553型30mmリボルバーカノン2挺、マトラR.550「マジック」短射程空対空ミサイル、AS-30空対地ミサイル、AS.37「マーテル」対レーダーミサイル、増槽、各種爆弾・ロケット弾などを4.5tまで。

イギリス空軍仕様と違い、主翼上面の短射程AAMランチャーは最後まで採用されなかった。


ジャギュアM編集

フランス海軍向け艦上攻撃機型で、エタンダールIVの後継機に検討された。空母運用に備えて構造強化が施され、1969年初飛行。

綿密な地上試験ののち艦上テストが行われたが、エンジンにまつわる不具合が明らかになってしまう。その修正に開発費用がかさんで、当初100機を予定していた導入数は60機まで絞られ、そうこうする内に海軍はシュペルエタンダール導入を決めて、1973年にジャギュアMは計画中止へ追い込まれた。


ジャギュアE編集

フランス空軍向け練習機型で、ジャギュアAの仕様に準じる。Eはécole(学校)の意味である。

試作2機、生産型40機が生産。


ジャギュアS編集

イギリス空軍向け攻撃機型ジャギュアで、当初からWE.177核爆弾を搭載して戦術核攻撃任務に投入された。1975年には高速道路を利用した配備訓練を実施し、戦場における敵軍阻止能力をアピールした。初の実戦投入は湾岸戦争で、1000lb爆弾やロケット弾、アメリカから供与されたCBU-87クラスター爆弾などを主武装として戦っている。


武装は30mmリボルバーカノンADENを2挺、AIM-9「サイドワインダー」を主翼上面のランチャーに左右1発ずつ搭載可能。増槽・各種爆弾・ロケット弾を4.5tまで。

その後の改修でAS-30空対地ミサイルの他、「シーイーグル」対艦ミサイルも運用可能になった。


ジャギュアGR.1A編集

1983年に航法機器を更新してGR.1Aとなり、75機が改造されている。

ジャギュアGR.1B編集

1994年には更に10機がレーザー目標指示装置TIALDを運用できるように改造され、ボスニアでの作戦に投入された。これがGR.1Bである。

ジャギュアGR.3編集

GR.1Bの成功を受け、残存機にはTIALDと、現用の偵察ポッドに対応する改造を施された。これはGR.3と指定され、仕様名から「ジャギュア96」とも呼ばれた。

ジャギュアGR.3A編集

仕様名から「ジャギュア97」とも呼ばれ、暫定的な改造に留まったGR.3よりも進んだ内容になっている。具体的には最新のEO GP1 (JRP) デジタル偵察ポッド・ヘルメット装備型照準器・データリンクシステム・ナイトビジョンゴーグルへの対応が進化している。

エンジンもアドーア106へと換装され、全シリーズ中の最強型となった。主翼上面ランチャーにはASRAAM対応仕様に改修する計画もあったが、そこまでは資金が続かなかった。


ジャギュアT.2編集

イギリス空軍向けジャギュアSの複座練習機型で、仕様はジャギュアSに準じるが、軽量化のため30mmリボルバーカノンは1挺取り外されている。

試作1機、生産型38機生産。副次的ながら、対地攻撃も担う。


ジャギュアT.2A編集

ジャギュアGR.1A仕様の練習機型。14機改造。

ジャギュアT.2B(非公式名称)編集

ジャギュアT.1AにTIALDを追加したもの。T.2Aより2機改造。

ジャギュアT.4編集

ジャギュアT.2A残存機をGR.3仕様に改造したもの。

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