概要
八王の乱は広義においては291年の賈皇后らによる外戚楊氏の排斥から、狭義においては300年の趙王倫らによる賈氏の排斥から始まり、311年に乱の勝者にして西晋最高権力者である東海王越の死までの西晋宗室による一連の騒乱を指す。
八王については西晋の故事をまとめた八王故事に由来し、決して八人しか王が存在しないわけではなく乱に関わった諸侯王は数十人いる。現在八王として挙げられるのは後世に特に目立った王を当てはめただけである。
八王とその他の重要人物
汝南文成王 司馬亮
宣帝・司馬懿の子。
一応若い頃から名声があったらしいが割と呉関連でヘマをしまくってる。
武帝・司馬炎は死の間際に皇太子・司馬衷の補佐を司馬亮に任せようとしたが、外戚楊駿の策略で詔は握りつぶされて司馬亮は許昌に出鎮させられた。その後、賈南風政権下で宰相になるが、司馬瑋を恐れて軍権を取り上げようとしたことで対立し誅殺される。
楚隠王 司馬瑋
武帝・司馬炎の子。長沙王の司馬乂の同母兄。
勇猛であるが果断・残忍な気質であったという。兄でもある恵帝を支えることを期待されていたようで都督荊州諸軍事として強大な軍権を握った。皇后・賈南風に協力して楊駿を排斥したことで中央の要職に就くが、軍権を巡って汝南王の司馬亮と対立して密勅を建前に誅殺する。しかし、司馬瑋が名望を集めることを恐れた賈南風によって詔を偽造した罪で処刑される。
趙王 司馬倫
宣帝・司馬懿の末子。
文盲かつ粗暴であり、以前から皇帝の着物を盗むなどの問題を起こしていたが、都督として関中を治めていた時に異民族による反乱を招くという致命的な失態を犯して洛陽に呼び戻された。当時、賈南風によって皇太子・司馬遹が廃嫡される騒動が起きており、司馬遹の側近は賈南風を排除する計画を企てていたが、自身の側近である孫秀の勧めで司馬倫はこれに協力するフリをしつつ反乱計画を賈南風側にリーク。結果、賈南風は先手をうって司馬遹を殺害、司馬倫は皇太子の仇を取るという名目で賈南風派を朝廷から駆逐した。その後、相国に昇ってさらには帝位の簒奪を敢行するがそれを認めない諸侯王の挙兵を受け、最終的に誅殺される。
斉武閔王 司馬冏
武帝の弟である斉王司馬攸の子。
父と同じく礼に厚かった。趙王司馬倫に協力して賈南風派を排斥するが、趙王の側近である孫秀に恐れられて許昌に出鎮する形で中央から遠ざけられる。司馬倫が簒奪するとそれを認めずに各地に檄を飛ばして挙兵。それに応じた成都王の司馬穎、常山王の司馬乂、新野公の司馬歆らとともに洛陽に進撃して恵帝を復位させた。功績によって司馬冏は大司馬に任じられて九錫を賜るが政治は乱れて民心を失った。最後は洛陽城内で、司馬穎の檄文を受けた長沙王の司馬乂との戦闘に敗れて敗死する。
長沙厲王 司馬乂
武帝・司馬炎の子。楚王の司馬瑋の同母弟。
文武共に常人を凌ぎ、礼にも厚い人物であった。同母兄である司馬瑋に協力して汝南王司馬亮を誅殺するが、後に司馬瑋が罪を受けたことで長沙王から常山王に降格される。司馬倫が簒奪すると斉王司馬冏の挙兵に加わって洛陽に進撃する。恵帝復位後も洛陽に残り、政治を乱した司馬冏に成都王司馬穎と河間王司馬顒らが兵を発すると僅かな手勢を率いて宮中の司馬冏を討ち取った。その後は政権を握り、恵帝にも礼を欠かさずに臣下として尽くすが、司馬乂の殺害を口実に司馬冏を討とうと画策していた司馬穎と司馬顒は不満を募らせて司馬乂を討つべく挙兵。だが、恵帝は二王を朝敵と見做して司馬乂を太尉に任じ迎え撃つ姿勢を見せる。洛陽城内の僅かな軍勢で数万を号する二王の軍勢と互角にわたりあったが、水源を止められ食糧を絶たれたことで洛陽城は凄惨な状況となり、事態を憂慮した朝廷の重臣である東海王司馬越によって司馬乂は捕縛され二王の軍勢に引き渡されて殺された。
成都王 司馬穎
武帝・司馬炎の子。
文盲であったが人望はあった。賈南風政権では疎まれて鄴に遠ざけられる。趙王司馬倫が簒奪すると斉王司馬冏の檄に応じて挙兵し、その後政権を握った司馬冏も長沙王司馬乂に指示して誅殺させる。だが、長沙王と対立したことで河間王司馬顒とともに彼を討伐するべく兵を発するも苦戦。洛陽城内にいた東海王司馬越の裏切りによってなんとか勝利を得る。その後は、皇太弟となって鄴から政治を専断するが、それに不満を覚えた司馬越が恵帝を奉じて挙兵。10万を数える軍勢に動揺するが奇襲によって勝利を掴んで恵帝を捕縛することに成功。しかし、幽州刺史の王俊と対立して暗殺を仕掛けたが失敗して逆に挙兵を受けて鄴から敗走。司馬顒に恵帝と共に回収されるが皇太弟の位を取り上げられる。後に司馬顒と司馬越が対立した際に、司馬顒によって河北の軍勢の取り込みを期待されて鄴に向かわされるがその途中で司馬越側に捕縛され、最後は司馬越側の劉輿の謀略による偽の勅命で誅殺された。
河間王 司馬顒
司馬懿の弟である安平王司馬孚の孫。
若い頃から清廉であると名声を得ていた。賈南風政権下で長安に出鎮した。趙王司馬倫が簒奪し斉王司馬冏が挙兵した際に、初めは司馬倫側として参戦するも形勢を見て司馬冏に寝返る。その後は成都王司馬穎に協力して長沙王司馬乂と戦って勝利する。その後は王俊に敗れた司馬穎と彼が連れてきた恵帝を回収して長安への遷都を強行、東海に逃れた司馬越と一時は講和を結ぶも、再び対立して激しく争うが次第に劣勢となり最終的には長安以外への影響力を失う。実権を握った司馬越によって許され、司徒に任ずるとして洛陽に召喚されるも、その途上で司馬顒が許されることを認めない南陽王司馬模の刺客に討たれた。
東海孝献王 司馬越
司馬懿の弟である司馬馗の孫で父は高密王の司馬泰。
若い頃から質素で清廉な人柄で名声を集めた。司馬泰(当時は隴西王)の世子として騎都尉、散騎侍郎、左衛将軍を歴任し、皇太子に学問を教えることもあった。賈南風が楊駿を排斥した際に手柄を立てたことで、東海王として別家を建てることを許される。その後の賈南風政権下では父の司馬泰が三公として政権を支えていることもあって要職に就く。趙王司馬倫による一連の騒動の中での動きは不明だが、斉王司馬冏によって恵帝が復位した後に、三公の一つである司空に任じられる。長沙王司馬乂によって司馬冏が誅殺された後も引き続き司空を務めるが、成都王司馬穎と河間王司馬顒が司馬乂を討つべく洛陽を囲むと、城内の惨状を憂いて(諸将に担がれた可能性もある)司馬乂を捕縛し二王の軍勢に引き渡す。司馬穎が実権を握ったが、その状況に不満を持って恵帝を奉じて挙兵。圧倒的大軍勢で鄴に進軍するも奇襲によって敗れたうえに恵帝を奪われ、司馬越自身は命からがら封国の東海に逃げ帰る。その後、司馬穎は王俊に敗れて敗走し、恵帝を擁した司馬顒は長安への遷都を強行。恵帝を救い出して洛陽に戻すべく司馬越は再び挙兵、司馬越の弟である東嬴公司馬騰、高密王司馬略、昌平公司馬模、従兄弟である范陽王司馬虓がこれに応じて司馬顒側と戦い、恵帝を奪還したことで八王の乱は終結した。彼のその後は永嘉の乱で
西晋孝恵帝 司馬衷
司馬炎の子。
暗愚であることから後継となることを問題視されたが妃である賈南風らの努力でなんとか廃嫡を免れた。だが、八王の乱では宗室諸王に振り回された挙句、最後は食中毒によって悲惨な最後を遂げた。なお、東海王司馬越や当時の皇太子司馬熾による毒殺の可能性も示唆されている。
恵帝の皇后 賈南風
詳しくは個別項目にて
乱の流れ
290年 武帝が死んで楊駿が独裁
291年3月 賈南風と楚王司馬瑋が楊駿らを誅殺
291年6月 楚王司馬瑋が汝南王司馬亮を殺し、自身も賈南風に殺される
299年12月 賈南風が皇太子司馬遹を廃位
300年3月 反乱計画を知った賈南風が司馬遹を殺害
300年4月 趙王司馬倫が皇太子殺害を口実に賈南風と重臣を殺害
300年8月 趙王司馬倫が帝位を簒奪
301年3〜4月 斉王司馬冏が挙兵し、恵帝を復位させる
302年12月 長沙王司馬乂が斉王司馬冏を殺害
303年8〜304年1月 成都王司馬穎と河間王司馬顒が長沙王司馬乂を殺害
304年7月 東海王司馬越が成都王司馬穎に挙兵するも敗北
304年8月 成都王司馬穎が王俊に敗北して洛陽に敗走
305年7月〜306年12月 成都王司馬穎と河間王司馬顒が東海王司馬越に討たれる