RINCIPATVS プリンキパトゥス
概要
ローマニアでアウグストスが適用した『プリンケプス(元首)(1名)による直接統治』をする体制となったローマニアである。それ以前の『ローマ元首』に当たるのは『コンスル職(執政者)』であった(2名)
かつての元老院セナートスのシステムを破壊はしないが、元老院またローマ国家全域を『調整』する権限を持つ『アウグストス元首』がローマ政治にに順応していく体制のこと。無冠の皇帝政治といわれるので実質は皇帝と同じぐらい恐るべき役職となった
『元首政治』確立
ここで複雑なのはオクター自身は別に即位も就任もしていないただ『カエサル』である、初代『ローマ皇帝』などという『認識』になるのは、アウグストスから100年ぐらい後の話である・・・。
古代ローマの共和政は、ローマが都市国家、あるいは都市国家連合である時代には有効に機能した。しかしながらローマが地中海世界のほとんどを支配する巨大国家になるとシステムとして限界を呈してきた。このような巨大国家の指導者の地位は都市国家ローマの有力者の集まりにすぎない元老院や、首都ローマの市民の選挙によって選ぶ執政官にはとうてい務まらなくなったのである。
かといって古代においてこうも巨大化した国家で全国民参加による民主制を実施するなど、到底不可能な事であり、またそのような事は誰も想定すらせず君主制に移行するのはやむを得ない事であった。
しかしながらかつて、王』という存在を憎みを追放し共和制に移行した歴史を持つ古代ローマでは絶対的あろうが、なかろうが君主という存在は最大のタブーであった。
君主と言っただけでローマ人は『狂乱』し『怒り狂う』のである!!
「内乱の一世紀」と呼ばれる動乱の時期を経て終身独裁官に就任した元老議員カエサルは、『ローマ王』を再興させようとしたと思われセナートスから拒絶される結局カエサルは共和政ローマの伝統を守ろうとする者たちによって暗殺される事になる。
『オクタウィアヌス』という者
その後を継いだオクタウィアヌスは、紀元前27年に元老院より「アウグストゥス(尊厳なる者)」の称号を受け古代ローマ最初およびヨーロッパ史上最初の「皇帝」となったとされる。
だがそれは後世の認識でありアウグストゥスは建前上は君主の地位に就いた訳ではなく、共和政の守護者として振る舞った。
(彼はプリンケプス(第一人者)という言葉で自身の地位を表したとされる。)
このような実質上は皇帝の地位に就いたものの、建前としては古代ローマの伝統を墨守し共和政の体裁を守ったこの体制を、後世になって元首政(プリンキパトゥス)と呼ぶ。